2011年9月29日木曜日

一神教純正ドグマからの逸脱

緑の資本論10 一神教純正ドグマからの逸脱


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
五 マルクスの「聖霊」
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
ア 要約
[マルクスの貨幣増殖の考え 貨幣以前の商品による原初形態]
●上着(金モールがあり、素敵なデザインで消費の欲望を誘う製品)
リンネル(ごわごわした安価な素材)

●上着はリンネルの価値形態となり、上着がリンネルの等価物になる。(使用価値は上着とリンネルは感覚的に違うが、価値としてリンネルは上着に等しくなる。例20ヤールのリンネル=1着の上着)(上着は他の商品の等価物として役立っているから等価形態にある。)
リンネルは自分の現物形態と違う価値形態を受け取る。(相対的価値形態)

●リンネル(商品)は相対的価値形態においては、いつも自分の価値を表現される地位にある。
等価形態である(欲望をさそう製品である)上着は、他の商品の相対的価値形態を表現する地位にある。

●マルクスによれば、アウラをまとった等価価値としての上着を前に、田舎娘リンネルはその魅惑的な姿の中に、素朴なリンネル族の美しい価値魂を発見して、20ヤールという数量をもって、自分の価値を表現されることを欲したのである。上着の方から進んで関係して与えた等式がこれではない。
他の村娘(他の商品)も、上着がそれ自身でリンネルと交換する能力を備えていると思い込み、上着はつぎつぎと他の村娘と関係を結んでいくようになる。
これはいつでも商品を買うことができる特殊な商品、つまり貨幣の萌芽を示している。

●上着のような等価形態をとる商品(つまり後の貨幣)は相対的価値形態であるリンネルの価値を表現するシンフィアンの地位に立つ。
リンネルのような相対的価値形態をとる商品は、等価形態をとる商品(つまり後の貨幣)によって表現されるシニフィエの地位に立つ。

●シニフィアン商品(後に貨幣として結晶)はシニフィエ商品に対して流動的アウラを帯び、それにシニフィエ商品が愛を抱き、それによって表現されることを意思した。
こうしたマルクスの説明で使われるアウラ、流動性、愛、意思、欲望などの性質はスコラ学が「聖霊」の概念のうちに見出そうとしたものである。

●「20ヤールのリンネル=一着の上着」に象徴される商品同士の出会いとおたがいの値踏みの過程には、すでにしてシニフィアンとシニフィエの不均衡がおこり、流動性や浮遊性をはらんだシニフィアン商品はそれ自体のなかに、すでにして価値増殖ということがおこるために必要な能力がそなわっている。

●貨幣は特殊な商品として、すでにして自らのうちに増殖性への秘められた意志を潜在させており、その意志はシニフィアンとしての商品に内在する流動性、浮遊性によって、すでに準備されてあった。

[聖霊]
●「聖霊」が激しい発動をおこなうとき、シニフィアンはシニフィエとの結びつきを解かれて自由に浮遊しはじめ、この浮遊シニフィアンが想像界と交わって増殖をおこなうのであった。このような過程の萌芽が、貨幣-商品-貨幣-…-流動体-結晶体-流動体-…の変態のうちに、すでに完全に準備されてある。こうして、資本主義における価値形態論の全領域が、「聖霊」の息吹に貫かれていることを、私たちは確認することができるのである。

●資本主義の普遍性と今日言われていることは、キリスト教のおこなった(イスラーム的なタウヒードの観点からすると)一神教の純正のドグマからの逸脱から発生した経済的現実なのである。その証拠は、「聖霊」の働きにかかわる記号論的思考が、新石器時代以来の「人類的」伝統に根ざしていることのうちにある。「聖霊」はまことに古い来歴をもっているのだ。

イ 感想
●貨幣として結晶していくような等価価値商品と、それによって表現されることを意思した相対価値商品の関係から、貨幣が生まれる過程と、貨幣が増殖する過程の双方がよくわかりました。

●貨幣が生まれ、増殖する過程には、マルクスの説明から、聖霊の概念とパラレルな人の思考(アウラ、流動性、愛、意思、欲望)が潜んでいると中沢新一は指摘しています。

●この節の結論部分を次の要約のように理解しました。
マルクスによって貨幣の増殖が聖霊と同じ概念で説明されていて、その貨幣の増殖を核心とする資本主義が現在世界を覆っている。
聖霊の概念を取り入れるということは、一神教を逸脱したものであるが、一神教の内部構造に生命的なプロセスをセットする素晴らしい効果を持つ。
イスラームにとってそれは一神教発生の人類的意義を危うくする。
聖霊は新石器時代以来の人類的伝統に根ざしている。

(つづく)

2011年9月28日水曜日

「三位一体」のドグマ

緑の資本論9 「三位一体」のドグマ


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
ア 要約
●マルクスが古典派経済学の行った資本の理解に「三位一体」の論理構造が潜伏していることを明瞭に直観していた。(その理由1マルクスが助けを求めたヘーゲル哲学がドイツ神学の影響を受けていること。スコラ経済理論が重商主義、重農主義からアダムスミスまでに直接的影響を与えていること。)

●このような古典派経済学の根底的批判をめざしたはずの「資本論」が、「三位一体論」の思考様式を用いて、資本増殖の本質を分析した。

●マルクスは剰余価値の形成を「三位一体」の構造とのパラレルとして思考した。(「坊主的概念」を資本の科学的分析の核心部分で放棄しなかった。)

●マルクスは商品に内在する「聖霊」的な活動を、除去することのできないものとして、それを出発点に資本の分析を開始している。循環論のおちいり、資本の解明によっても、資本主義の「外部」に脱出することは不可能となる。

●イスラームなら、その実験から、商品に内在する「聖霊」の働きを除去することは可能。

●マルクスは「聖霊」の増殖的活動を資本解明の基礎に据えて、それでトラウマを被った。

●「三位一体」のドグマこそ、一神教の形成の「形而上学革命」に深く突き刺さった後戻り不能なトラウマだ。

イ 感想
●資本論の核心的思考にキリスト教の「三位一体」の思考が用いられていることを初めて知りました。

●マルクスもキリスト教世界の思考から完全に自由になってはいなかったということだと思います。

●これにより、中沢新一は資本増殖の思考では、資本主義と共産主義の類縁性を指摘し、その類縁性より資本主義とイスラーム経済の差異の方が、大きいと言おうとしているように想像します。

(つづく)

2011年9月27日火曜日

中沢新一の宗教入門

待ち合わせの時間調整のため、書店内をぶらぶらして、面白そうな本を手に取ってみて、立ち読みしていました。文庫本のコーナーで、中沢新一の名前が目にはいりました。
大人の学校卒業編という文庫本です。5人の有識者が講義形式で話をして、1991年にテレビ放映したものの記録のようです。

大人の学校卒業編(静山文庫、2010.11)

中沢新一は宗教学入門という表題で4つの講義をしています。

私は、元来、宗教には興味がありませんでした。興味がないというか、反対にできればそれから避けたいと思っている嫌いなものといっていいと思います。

しかし、このブログで岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習を始め、芋づる式に中沢新一の書籍の読書にはまり込み、今は緑の資本論を少し詳しく読んでいることになり、いつの間にか宗教に興味が出てきてしまっています。

自分の興味の対象がこのように変化するとは、予想できませんでした。

一神教におけるキリスト教とイスラームの違いには興味を持ち出してしまっています。

さて、この文庫本を手に取ってみて、入門者用のキリスト教解説が最初に書いてあるので、興味が刺激されて、無意識的に購入してしまい読んでみました。

読み進んで、最後の話題である「スープランドの宗教学」の中で、宗教体験が生じるのは、この世界より大きな次元をもったものが、横切っていくのを体験していく時だという趣旨の説明があり、2次元居住者と3次元世界の関係を比喩として示していました。

この部分を読んでいるときに、宗教の核心部分の理解は、擬似的なものであれ、霊的な実体験がある程度必要である、あるいは過去の霊的な体験を思い出してみることが必要であると直感しました。

一般向けに理解しやすくなっているので、1時間ほどで全部を読めました。

2011年9月26日月曜日

聖霊は増殖する

緑の資本論8 聖霊は増殖する


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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四 聖霊は増殖する
ア 要約
●キリスト教的西欧では「子を産出する神」、貨幣、無限の数学、資本主義、精神分裂病的文明。これらの聞には明らかに通底するものがある。

●初期キリスト教は「聖霊」もまた、「父」「子」と並んで、神の示す格(ペルソナ)の一つである、という考えを、ドグマとして確立した。

●トマス・アクイナスらによる「三位一体論」の構築で理論化(「父」は神の本質を源泉的、原初的に持つ。「子」は「父」から産出され知恵・言葉として生まれる。「聖霊」は「父」と「子」から発出される。)

●スコラ学者は「聖霊」の本質を贈与論と生命論の言葉で語っている。(産出が生殖や相続の過程に、発出が愛や意志の行為にあらわれる。前者は遺伝情報の保存のためであり、後者は他者に向かって自己の免疫機構を解除して開いていく、愛の行為の場合のような、生命論的過程に相当する。)

●「聖霊」は贈与として、賜物として実現する。贈与を動かしていくのは、他者に対する愛の心(熱望や欲望)である。愛と欲望が両義的であるように、贈与もまた両義的である。贈与も一瞬にして報酬目当ての「聖物売買的」行為に堕落していく危険性を常に抱えている。

●キリスト教:「父」が「子」を産出し、「聖霊」がそこから発出してくる「三位一体論」を一神教記号論のベースに設定して、その構造によって、資本主義ときわめて親和的である。

●イスラーム:一神教が実現しようとした「第一次形而上学革命」の精神に忠実であろうとして、至高純粋の一神教の形態をタウヒードによって実現しようとしたイスラームは、その構造によって、資本主義とは異質な経済システムを生みだし、発達させていくことになるだろう。(イスラームのキリスト教批判は、資本主義(社会主義も含む)に対する批判となる宿命。)

イ 感想
●これまで不確かだった三位一体論の内容について理解することができました。

●聖霊は贈与として実現するが、贈与を動かしているのは愛であり、愛は両義的であり、だから贈与も報酬目当て行為に堕落する危険を抱えている。という記述に興味が湧きます。直感的に理解できます。

●聖霊とは人が普遍的に備えている思考パーツの一つであると思います。それをキリスト教は原理に取り入れてしまってので、結果世俗的に堕落した。という風に、とりあえず素人理解しておきます。

●イスラームから見るとキリスト教が一神教としての純粋性を失っているという風に写り、経済の落差を考えると、近親だからこそ、一層憎悪するみたいな感情になっている面がある。という風に9.11の背景として感じます。

(つづく)

2011年9月24日土曜日

タウヒードの思考

緑の資本論7 タウヒードの思考

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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三 タウヒード貨幣論
   2節【タウヒードの思考】
ア 要約
●イスラーム的一神教は「タウヒード」の論理に貫かれている。(タウヒードとはアラビア語で「ただ一つとする(一化する)」を意味する。)

●森羅万象この宇宙は形も色の属性も多様性にわきたっているが、そのすべての存在(あること)の存在性が「ただ一つの実体」におさまっていく。つまり唯一の神である「ただ一つの実体の表出」と理解される。逆に言えば、唯一の神アッラー(アッラーフ)こそが、森羅万象の創造主である。(ここまでの考えはユダヤ教ともキリスト教とも共通する。)

●その「ただ一つの実体」の内面が単純極まりないものである。神の「内面」に一切のトポロジー的構造化が拒絶される。唯一の神は完全なる単純実体である。

●これは「主体性のタウヒード」と呼ばれ、イスラーム神学で、アッラーフが、1本体において部分を有さず単一であり、2属性において無比であり、3行為において単独であるという3つの認識で定式化されている。

●キリスト教は唯一の「神」の内部に、「父と子と聖霊の三位一体」の構造を認め、その純粋な「関係性」をトポロジー構造として理解することができる。

●イスラームは「アッラー」にこのような単一性を冒す危険をはらんだトポロジー思考を拒絶する。

●イスラームにおいては「一」と「多」が直接的に結び合う。あらゆる存在者は「一」を直接表出し平等であり、その表出の度合いを異にしているから、同じものはなく、世界は多様性満ちている。

●イスラームの考え方では、どんな存在者も「一」と直接性において結ぼれているので、その存在者は他のどんな存在者をも表象するものではなく、一方が他方のシニフィアン[記号表現]として自由に増えたり、減ったりすることはできない「正直さ」をそなえている。

●一神教が警戒している増殖の現象がおこるときには、「一」との直接性の表出関係を失って、自由な浮遊状態に入ったシニフィアンが、歯止めをなくして数や量や強度を増やしていくのだ。こういう増殖がおこっているとき、一見すると世界は多様性を豊かにしているように見えるが、実際には豊かな多様性をはらんだものが均質化する表象のうちにとらえられ、その表象作用が増えているだけなので、多様性そのものは貧しくなっているのである。お金が増えても心は貧しくなる。これは、表象が量を増やしても、多様性は貧しくなり、それは「一」である唯一の神との直接的なつながりが貧しくなっているという事実を言い表している。

●イスラームにおけるタウヒード(一化)の思考こそ、一神教の成立という人類にとっての「第一次形而上学革命」の精神を、もっとも純粋な形で実現してきたものだと言える。

イ 感想
●同じ一神教のイスラームとキリスト教において、神の内部に構造がなく単純であるか、構造があるのかという違いを理解しました。

●神とのつながりが切れた増殖(例 利子)により金が増えても、「一」(神)とのつながりが貧しいので心は貧しくなるという思考の例示により、タウヒードの考え方の理解が進みました。

●タウヒードの考えを知り、これが(ひとつの)「信仰心」だと実感しました。タウヒードの考えにより信仰心を持てば、なにか、頑強無比の活動ができそうな感じがしてきます。

(つづく)

2011年9月22日木曜日

資本主義とイスラーム経済の差異

緑の資本論6 資本主義とイスラーム経済の差異

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
ア 要約
●イスラーム:利子(利潤)発生を倫理的禁止とし、資本主義の形成が長いことおこらなかった。(利子の発生を「分子レベル」で抑制した。)

●キリスト教世界:13世紀以降利子・利潤獲得の抑制を教会が急速に弱め、本格的な資本主義形成の道が開かれた。

●キリスト教が「金は金を生まない」(アリストテレス)という「自然主義」をもって利子・利潤に対した。(トマス・アキュナスなどの神学者一般の思考)

●この思考は400年後重農主義者にそのまま受け継がれていく。(価値を増やすのは、自然を耕作する農業だけで、神が与えたもうた「純粋な自然の贈与」が自然の増殖となって、人間にもたらされる。)

●重農主義者の思考はカトリック神学と同じ思考法である。(この世界に価値の増殖がおこるのは、ただ「神の賜物」が、経済回路を逸脱した自然と霊性における過剰分となって、「恩寵」として人間にもたらされるときだけである。)

●古典派経済学の骨格にトマス・アキュナスなどのスコラ学者の経済論が大きな影響を及ぼしている。(アダム・スミスの経済論の基礎は道徳哲学にあり、「自然法」を媒介として、滔々とスコラ経済理論が流れ込んできている。

●(以上から)西欧近代の経済的現実のなかに、スコラ哲学的に理解された一神教の構造が潜伏していることは、もはや疑いないだろう。

●ユダヤ教は増殖のアポリア[難題]を、魔術と多神教否定で乗り越えようとした。

●イスラームは利子厳禁とし、経済生活全般の実践的革新を図ろうとした。

●カトリック・キリスト教は、はじめ及び腰で反対し、次におずおずと容認し、ついには自ら生み出した鬼っ子によって大打撃を加えられた。

●資本主義推進の原理はカトリック神学の価値理論ときわめて類似の構造を持つ。(キリスト教的一神教と古典派経済学、さらには西欧における生産・流通・分配の構造そのものの間に深い本質的関係が存在しているのではないか。)

●イスラームとキリスト教、同じ一神教の二つの文明圏における、今日の「衝突」が意味するものを最大の深度で理解するためにも、この探求は重要なのである。

●イスラーム経済の貨幣論は一神教のイスラーム的理解である「タウヒード」の構造で組み立てられている。

●カトリック的貨幣論(ウスラと戦ったスコラ学、重農主義、古典派経済学、「資本論」を経て現在まで資本主義の内部で有効に作動している)は一神教のキリスト教的理解である「三位一体」の構造にもとづいて作動している。

●一神教の初期条件の違いが、一神教世界の内部に重大な差異を発生させている。(経済発展の初期段階におけるイスラームの絶対的優位、十字軍問題、近代における西欧資本主義の爆発的展開、イスラームの経済的劣勢、今日のグローバリズムの現実。)

イ 感想
●9.11テロに刺激されて、この書が生まれたということを、この節で改めて思い出しました。

●イスラームとキリスト教の増殖に対する考え方とその対応の差異が、今日のグローバリズム資本主義とイスラーム経済の劣勢を招いている。その差異を明らかにしていくことがこの書の目的であると宣言している節です。

●イスラームと西欧の経済力の違いが、一神教の(私など門外漢からみると)微細な差異に起因しているという指摘に鋭さを感じます。まるで遺伝子分析をしているような緻密な分析が歴史に加えられています。

●この小さな節だけを対象にしても、すべてのストーリーが中沢新一のオリジナルではないにしても、他の人の著作物パッチワークでは決しできない、著者の骨太な発想展開力に驚嘆します。マルクスまで登場させます。

(つづく)

2011年9月21日水曜日

キリスト教のストッパー解除

緑の資本論5 キリスト教のストッパー解除

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   3節【キリスト教のストッパー解除】
ア 要約

●キリスト教世界でも利子の否定は、原理的には事情は同じはずだった。(旧約聖書には高利を否定する記述がある。)

●12世紀ヨーロッパではウスラ(高利)を教会が禁止しようとして大論争が繰り広げられた。

●神学者の「ウスラ反対」の論陣は、イスラームが一神教的記号論で武装した徹底的「反自然主義の思考」により対抗したようなものではなく、「金は金を生まず」という「自然主義的な認識」によって対抗しようとした。

●ウスラとの戦いで、結局教会は勝利できなかった。

●スコラ学者の論調は、高利一般を断罪するのではなく、いったいどの範囲の利子付き金融なら許されて、どのあたりを超えるともはや許されなくなるかという、「公正」の理論を練り上げることに、彼らの関心が移ってきたのである

●もう一つ重要な点は、この時代に「煉獄」の概念がつくられたことだ。(天国と地獄の中間に、生前の罪を浄化して天国への門をくぐっていける資格を得る、煉獄と呼ばれる新たな緩衝地帯が設定された。これによって、高利貸たちに重くのしかかっていた心理的負担は、大いに軽減されることになった。)

●13世紀に、資本主義の草分けである未来型の商人、高利貸したちにはめられていた足かせが、「公正」の理論と「煉獄」の思想ではずされた。

●キリスト教はこのとき、資本主義に対するストッパーをおそるおそる解除しはじめたのである。

イ 感想
●同じ一神教でありながら、イスラームは徹底した一神教記号論で武装し、キリスト教は「自然的な認識」で対抗しようとしたという差異の原因について興味が湧きます。

●「公正」の理論と「煉獄」の思想で資本主義のストッパーが外されたという、マクロな視点から歴史を捉え、ポイントを単純明快に表現する論調がとてもわかりやすく感じます。

(つづく)

2011年9月20日火曜日

利子の厳禁

緑の資本論4 利子の厳禁

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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二 利子(利潤)を否定するイスラーム
2節【利子の厳禁】
ア 要約

●イスラームにとって貨幣は記号であり、象徴界と現実界を直接性において結ぶ蝶番でなければならない。貨幣は、物の代用でなければならない。売り手と買い手の間に決定的な区別は発生しないはずである。

●実際は貨幣は物に対してシニフィアン[記号表現]としての、つまりは物に対する表現者としての位置をすぐさま獲得する

●購買を売却から「遅延」させ、「物の一般的代用物(つまり流動的な自由シニフィアン)」としての貨幣をより多く獲得するようになる。

●これにより、経済的強者のみが貨幣を蓄財し、生産活動が麻痺する。

●イスラームは貨幣の魔力に抗して、想像界に対する象徴界の絶対的な優位を守るために、一種の「分子革命」をした。それは「利子の禁止」である。

●一神教的思考では、貨幣が自己増殖を起こし、増殖分が「利子」として貸し手に入ることはあってはならない。

●イスラームでは「無利子銀行」の試みをはじめ、一神教的記号論が厳密に適用されなければならないと考えられた。

イ 感想
●一神教的思考から貨幣について考察するというテーマを中沢新一の文章で初めて接し、私にとって新鮮です。

●イスラームの世界で、無利子銀行が現実にあることを、この文章ではじめて知りました。

●WEBで調べると、1950年代のパキスタンで最初に生まれ、ついでエジプトに現れ、1970年代以降潤沢なオイルマネーで世界に200以上作られているとのことです。

●無利子銀行のメインの活動は事業家に対する出資で、もともとハイリスク、ハイリターンなキャラバン交易活動に対する出資に由来するようです。

●無利子銀行が現在の世界で一定の規模を成し、成長を遂げている現実にも興味が向かっています。

(つづく)

2011年9月19日月曜日

象徴界と現実界の一致

緑の資本論3 象徴界と現実界の一致

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
ア 要約
●一神教の原理では、象徴界(神のロゴス)と現実界は一体でなければならない。(「わたしはある。わたしはあるという者だ。」律法の書 神が自らを「ある」(現実)と呼んでいる。)

●神のロゴスに似せたものが言葉であり記号である、それは象徴界と現実界を可能な限り直接的に結び合わせるものでなければならない。

●一神教は想像界の働きに警戒的である。想像界の働きが現実界と結びついて肥大化すると、農耕社会の偶像崇拝が発生してくる。

●偶像崇拝者は象徴界と現実界の直接的な一体状態を耐え抜いて、神のロゴスを生きることができない。

●偶像崇拝的な社会は自由であることやたくさん増殖することに、大きな価値を置いてきた。そのためにそこでは、象徴界(神のロゴスであり父のロゴスであるもの)の権能を奪って、快感原則的な想像界の働きをべースにする社会を構成しようとしてきた。

●現代を特徴づける資本主義と精神分裂病という、象徴界の権能の剥奪から生ずる事態は、まさに一神教の民の間に発生し、またたくまに地球大の規模に拡大していったものだが、ただイスラームだけがこの事態を病気として診断し、一神教の思考に従うわれわれは、象徴界と現実界の直接的一致の原理を守るべきではないのか、と他の一神教の民に呼びかけていたのである。

イ 感想
●これまでの読書から、窮屈な一神教を巧みに修正したキリスト教から資本主義が発生して、様々な現代社会の問題を発生させていると理解してきました。そうした理解から、この節で述べられていることはよく理解できます。

●イスラーム(原理主義)が、一神教の大切なところを修正して繁栄しているキリスト教世界(西欧世界)を憎悪しているという図式が、この節の説明で思想面から首肯できます。

●最後の文章に「精神分裂病」がでて来るので、前後の文章にその説明が無いので、唐突感があります。

(つづく)

2011年9月18日日曜日

一神教の成立

緑の資本論2 一神教の成立

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載します。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   2節【一神教の成立】
ア 要約
●一神教の出現によって、魔術的思考にじつに手強い敵対者が現れた。

●神は「無法者の言葉」で書かれた律法を刻んだ石板をモーセに与えた。

●イスラエルの民は国家から逃亡したハベル(逃亡奴隷やならず者)たちの形成する、自然によるのではない律法による新しい共同体だった。

●ヤハヴェの名をもった超越的知性は、今後人間(この時点では、彼が選んだ少数のハベルたちだけ)は自らの本質をなす流動的知性の持つ特徴のうち、想像界の働きに直結するイメージやそのメタモルフオーシスの強度と魅力を愛してはならない、と命令している。(その像を拝んではならない。その神々を愛したら、君を子々孫々まで妬む。)

●モーセはヤハヴェにつかない者三千人を虐殺した。

●一神教は流動的知性の中に変化も生成もしない純然強度たる「一(いつ)」を発見して、世界と自己の認識に新しい段階を画することになったが、その「ハベル的」(逃亡奴隷やならず者的)企画を実現するためには、魔術的思考のうるわしい花々を蹴散らしてしまう必要があった。

… … … … …
●ここで筆者はタリバンのバーミヤン仏像破壊について、それが魔術的思考への惑溺に反対する明確な一つの思想に根ざしているとし、それをほとんどの人が忘れたふりをしていると述べています。

●また、「私たちの科学はいまだかつて、魔術的思考を生活の諸領域で消滅させることに成功したためしがない。しかもそれは、資本主義化した私たちの経済生活の基底で、いままでにないほどの強度を持って活発な活動を続けている。この点においては、一神教の望みは実現しなかったのである。」と述べています。
… … … … …

●モーセは装身具の金属を溶かして、流動体にし、それで子牛の像をつくり、拝んだハベルの民に怒り、その像を砕いて水に撒き、その水を無理やりその民に呑ませた。モーセは人々の宗教行為の中に潜んでいる「貨幣論」的な臭いに敏感に反応し、これを拒絶した。

●筆者はこのモーセの体験の残響を、ケインズの言葉(未来への確実な保証がないとき、価値物を貨幣のような流動体として貯め、その流動体のなかから利子[増殖分]を備えた価値を期待する。)に聞き取ることができると述べています。

●そこから、一神教の背後には一つの「経済学批判」が潜んでいると述べています。(偶像の神々は想像界によって育まれ、魔術的思考を温床として、いずれはそこに増殖する貨幣をめぐる資本主義の思考を成長させていくだろう。はじまりにおける一神教の戦いは、このような人類の未来にまで影響を及ぼすにちがいない根源的な「悪」に関わりを持っている。)

●しかし、今日ではもはやイスラームの原点への回帰をめざす人々だけが、そのことを意識しているだけになってしまった。

イ 感想
●一神教は流動的知性の中に変化も生成もしない純然強度たる「一(いつ)」を発見した。という文章の意味がこの節で説明されるハベルやタリバンの例からだんだんと理解が深まります。

●中沢新一がモーセの行動に「貨幣論」的な臭いに敏感に反応したという解説を、ケインズの学説を引用しながらしています。そうした論の先人の展開はあると思いますが、そうした論を引用ではない文章で表現できる中沢新一の知識や論理力に感心しました。

●一神教のなかでも、イスラーム原理主義者だけが、「悪」=「偶像の神々が魔術的思考を温床とし、増殖する貨幣をめぐる資本主義の思考を成長させる」を意識しているという最後の文章は、私の一神教についての現状理解を深めました。

(つづく)

2011年9月16日金曜日

魔術的思考の時代

緑の資本論1 魔術的思考の時代


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載します。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

書籍「緑の資本論」の紹介はこのブログの5月27日記事「中沢新一著『緑の資本論』紹介」をご覧ください。

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一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
ア 要約
●一神教は自己増殖をおこなうものに対してつねづね警戒をおこたらない。特にユダヤ教とイスラームで著しい。

●ユダヤ教は初期の信仰が発達するさい、農耕民に囲まれていたことが、自己増殖するものに警戒心を育てた。(農耕民は魔術性を特徴とする豊穣の神々を祀っていた。農業と動物の家畜化により国家が生まれ、大帝国が成長した。人間の王は自然の豊穣の力を持つためには、動物の王と同格にならなければならず、動物と人間が合体したハイブリッドな神々が生まれた。こうした神々を崇拝し、それと一体となることで、国家権力にそなわった「超越性」を誇示しようとした。)

●この社会で奴隷であったユダヤ人は想像界で働く「超越性」を、根底から否定し去ろうと試みた。

●モーセの前に出現した神は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言った。自分は「ヤハヴェ」という名前を告げた。(生成し、変化し、増殖をおこし、メタモルフォーシス(変身)をおこなう神でなく、「ある」としか言わない、いっさいのイメージを拒否し、名前だけをもった新しい神が出現した。)

●一神教が生まれても人類の生物的進化はないが、フォーカスの微小な移動がおこり、そこから「霊的」飛躍が実現された。
「自分たちの存在を特徴づけている流動的知性の働きの内部ないし奥に、変化しないもの、生成しないもの、増えないもの、減らないもの、条件づけられないもの、限界づけられないものを見出し、そこに横断性や変容性や増殖性よりもずっと根源的な「超越」のあり方を発見して、これを「一(いつ)」と言った。こうして人間は、流動的知性の内部にいっそう深く踏み込んでいくことになった。」

イ 感想
●動物の頭と人間の体をしたエジプトの神の意味がよくわかりました。

●そうした神々が信仰されていた大帝国で、抑圧されていたユダヤ人に一神教が生まれたという歴史の必然性を感じさせるストーリーも理解できました。

●想像界で働く「超越性」を根底から否定し、ずっと根源的な「超越」のあり方を発見して「一(いつ)」と言ったという部分の理解がわかったようで、わからないようで…。頭では分かっているが、体感レベルでしっくりこない状況です。肝心の部分についてさらに学習を継続したいと思います。
(つづく)

2011年9月15日木曜日

狂牛病とテロが呼び覚ますもの

中沢新一著「圧倒的な非対称」3 狂牛病とテロが呼び覚ますもの

この記事では、中沢新一著「緑の資本論」収録論文「圧倒的な非対称」の3節を扱っています。
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3節【狂牛病とテロが呼び覚ますもの】

ア 要約
●世界は「荒廃国(Waste Land)」の様相を呈している。(エコノミーとコミュニケーションが閉ざされ、豊かなものの流動が凍結された世界)

●世界の荒廃化に立ち向かうキリスト教の戦略は「贈与の行為が世界を荒廃から救い出す」思想であった。(キリストが自らの死をサクリファイス[生贄]する。死の贈与が贈り届けられ、神はそれに応えて愛の流動を贈るという思想。)

●テロの背後にもよく似た贈与論的思考がある。(自分たちは一方的に奪われ、他方は反映している非対称を打ち破るために、自分と相手をもろともの死のサクリファイス、どこにも贈り届けられることのない死の贈与に巻き込もうとする。非対称をつくりだしている全機構を、もろとも破壊したいという欲望。)

●イエスの十字架刑が象徴するもの(キリスト教)と、テロ行為(イスラム原理主義者)とは鏡に映したような反転像。(自分を憎んでいるものによってイエスは死ぬ。テロリストは自分が憎んでいるものに死をもたらそうとするが、同時に自分も死ぬ。イエスは愛の流動が発生するエコノミーの回路を開こうとしている。テロの行為は愛の発生の可能性を決定的に閉ざし、憎しみを永続させる。)

●十字架もテロも圧倒的な非対称の破壊を目指しながら、その目的実現は不可能だ。(十字架では神と人の間に愛のエコノミーは発生するが、その流動し始めた愛を神ではなく異教徒や「貧困な世界」に生きる人間や動物に注いでいこうとすると、ニーチェのいう「贈与の一撃」となり思い負債の感情を相手の心につくりだし、つまり愛は偽善に変貌しやすい。テロ行為も繁栄を誇る相手に痛撃を与えることはできるが、双方にもたらされるものは荒廃のみである。)

●つまり、非対称を破壊しようとする一神教的戦略は、いずれの場合も身動きのつかないジレンマに陥ってしまう。

●対称性社会の人々には、結婚による異種族の結びつきが、圧倒的な優位性のために無神経になった人間の心に重要は変化をもたらすという思想、広く支持されてきた。(動物と人間の結婚をテーマとした神話。)

●日本刀という新技術がもたらされたシベリアで対称性が破壊され、人間と熊が戦い、双方が死んでしまう神話が残っている。この神話は極めて暗示的である。「富んだ世界」と「貧困な世界」の住民が死にものぐるいの戦いを起こしても、そのときには両方が死んでいく。たとえ一方が勝利しても、世界には晴れやかな流動は帰ってこない。

●人間が非対称の非を悟り、人間と動物との間に対称性を回復していく努力をおこなうときだけ、世界にはふたたび交通と流動が取り戻されるだろう。

●狂牛病とテロが、対称性の知性をもういちど私たちの中に呼び覚まそうとしている。

イ 感想
●圧倒的非対称の解決に一神教的戦略が役立たないことは納得できます。ニーチェの「贈与の一撃」についてはいつか詳しく調べてみたいと思います。

●人と動物との非対称を解決するところまで遡らなければ、9.11テロの解決はないということだと思います。中沢新一の本をいくつか読んで、それはそうだとは思いますが、重たすぎる感じは残ります。中途半端な理解から脱却できれば、重たい感じはとれるかもしれません。

●狂牛病なり、9.11テロなり、それを考えるとき、どうしたら解決できるのか?という現実問題解決の視点で、私は考えます。おそらくほとんどの人がそうだと思います。ところが、中沢新一はそういう発想ではなく、その問題解決に必要な思考回路(思考ツール)を探しているのだと思います。思想家ですから当然と言えば当然です。その差異に少しずつ気がつきだしました。
(おわり)

2011年9月14日水曜日

狂牛病とテロの病根は同じ

中沢新一著「圧倒的な非対称」2 狂牛病とテロの病根は同じ


この記事では、中沢新一著「緑の資本論」収録論文「圧倒的な非対称」の2節を扱っています。
……………………………………………………………………
2節【狂牛病とテロの病根は同じ】

ア 要約
●対称性の保たれている社会
・人間の方が技術において動物に優れていたことは間違いない。
・現実を支配する非対称のつくりだす罪を、思考によって解決しようという努力が、たえまなく試みられてきた。
・例 アイヌをはじめとする多くの狩猟民の間に見いだされる思想。「かつて動物は人間とおなじことばをしゃべり、結婚もおこない、たがいを兄弟とも親子とも認めあう仲間同士だったのである。時々動物が毛皮や肉をお土産に山を下りてきて、狩人が仕留める。人間はこれら動物の霊に、精一杯のもてなしをする。動物の霊は満足して霊の世界に戻っていく。」

●現代の圧倒的な非対称社会
・動物の家畜化が始まって、人間と動物の間に圧倒的な非対称ができた。
・人間は牛たちに同類の脳や内臓を飼料として与え、草食動物の牛にカンニバルの風習を強いた結果、狂牛病が発生し、食品産業の土台を揺るがす事態が発生した。
・大規模なテロの一撃が加えられたような印象さえ受ける。

・こう考えてみると、狂牛病とテロは今日の文明の同じ病根から生じた、類似した構造を持つ病理であることがわかる。

・牛たちの一括処分やテロリストの抹殺も事態対処法の一つであるが、有効期限はきわめて短い。同じ病根から別の形をとった狂牛病、報復のテロが以前にもまして悲惨な形で行われるにちがいない。


イ 感想
●中沢新一に狂牛病とテロが同じ病根から生じた、同じ病理だと指摘されると、これまで気がつかなかった真実が暴かれたような感じとなり、一種恐ろしさを感じます。

●中沢新一の思考の根幹には、非対称の現実とあるべき対称の落差を思想によって埋めようという戦略があるように直感します。非対称の現実を対称に変更するという実務的政策的発想から思考が出発しているわけではないように感じます。
(つづく)

2011年9月13日火曜日

圧倒的な非対称とテロリズム

中沢新一著「圧倒的な非対称」1 圧倒的な非対称とテロリズム


書籍としての「緑の資本論」紹介はこのブログの5月27日記事でしました。
またそこに収録されてている「モノとの同盟」は5月29日記事(中沢新一「モノとの同盟」読後の感想1同2同3)で紹介しました。

ここでは書籍「緑の資本論」に収録されている論文「圧倒的な非対称-テロと狂牛病について」の感想をメモします。

論文「圧倒的な非対称-テロと狂牛病について」は*印で全体が3節に区分されています。
当方で勝手に次の小見出しをつけ、このブログの記事とします。
1節【圧倒的な非対称とテロリズム】
2節【狂牛病とテロの病根は同じ】
3節【狂牛病とテロが呼び覚ますもの】

……………………………………………………………………

1節【圧倒的な非対称とテロリズム】

ア 要約
●貧困な世界と富んだ世界の圧倒的な非対称性がテロを招き寄せている。

●この圧倒的は非対称が生み出す絶望とそれからの脱却について、時代に先駆けて宮沢賢治が思考した。
宮沢賢治は人間の世界の非対称関係の根源的な原型が人間と野生動物の関係であると考えた。人間が火器を手にしてから、弓矢しか手にしていなかったときにかろうじて実現していた対称的関係が生まれえなくなった。近代の技術を身につけた人間が「富んだ世界」を享受し、野生動物は「貧困な世界」を生きなければならない。
宮沢賢治はこの状況を小説「氷河鼠の毛皮」に表現し、非対称を告発する動物が、人間に対するテロを実行するという題材に取り組み、非対称性の難問からの脱出を思考した。

●「夢や言い間違いを通して、抑圧されていた無意識が、強固を誇っていたはずの自我の内部に吹き上がってくるように、『貧困な世界』の意志はテロを通して『富んだ世界』の中枢に吹きつけてくるだろう。年中目覚めてばかりいる文明は、柔軟性を欠いてかたくなだ。たくさんの夢を見ること、たくさんの言い間違いをすすんでおこなうことが、文明にも必要なのである。それによって自我と無意識の問に通路が聞かれ、心の内部に対称性への変化が生まれるように、文明を構成する力の配置にも変化が生ずるだろう。テロリズムの悪夢は、私たちにそのことを気づかせる激痛をはらんだ覚醒の一撃ともなりうる。」

イ 感想
●引用はしませんでしたが、貧困な世界と富んだ世界の圧倒的な非対称性が9.11などのテロを招き寄せている様の記述は説得力あるものです。
●非対称の原型が人間と野生動物の関係にあるという視点が、おそらく著者に特有で独創性を感じます。哲学的な深さを感じ取るとことができます。テロと狂牛病を同じ文明病として扱うことになります。
●宮沢賢治の問題意識の深さに改めて気が付きました。
●9.11テロの意義を、意識と無意識の関係の中における「夢、言い間違い」に喩えて、現代文明に必要なものとし、それによって対称性への変化が生ずることを述べています。おそらく、読者に「著者はテロを擁護している」と誤解されないための最大限の表現配慮をした文章だと感じました。私は著者の言う通りだと思います。
(つづく)

2011年8月21日日曜日

縦書きpdf文書の表示方法

中沢新一や縄文関係の書籍を裁断・スキャン・pdf化して、パソコンで読む風習がすっかり定着してしまいました。全文検索やテキスト引用がパソコンできるので、もう紙本読書には引き返せません。
しかし、ほとんどの書籍が縦書きであり、アドビアクロバットで見開きで表示するときに、左から表示され、違和感をもっていました。ページ表示も左から表示されます。

見開き表示ではpdf文書は左から表示される
アドビアクロバットのデフォルト設定

この表示を右からに変更できないか、WEBで何回も調べたのですが、期待する情報を見つけられないで、半ばあきらめていました。
ところが、最近WEB情報で右からの表示に変更できることがわかりましたので、参考までに報告します。

pdf文書を表示させた状態でその画面を右クリックして「文書のプロパティ」を表示します。
次に「詳細設定」タブを表示します。その画面したにある「読み上げオプション」の「綴じ方」が「左」になっているので、これを「右」にします。「OK」をクリックします。
これで本文の見開き表示が右からに変更します。また、ページ表示も右からに変更します。

見開き表示でpdf文書を右からの表示にした状態

ささやかなテクニックですが、これを使えるようになって、読書のしやすさが増大しました。

なお、残念ながらアドビリーダーではこの機能は使えないようです。

読書環境改善のために、次に獲得したいテクニックは、液晶画面で文書を読んでいて、目が疲れない設定・工夫を見つけることです。
通常のpdf文書は背景色や文字色を自由に変えられるので、読書するときに目が疲れません。ところが、自炊で作ったpdf文書は元が画像ですから、アドビアクロバットでは背景色や文字色を自由に変えられないようです。
フォトショップなどを使えば、1ページずつ変えられるのですが、時間がかかって実用的ではありません。
とりあえず現在は液晶画面輝度を下げたり、椅子の高さを調整したりしていますが、根本的に解決するテクニックを探しています。白地に黒文字が印刷されているように見えるpdf化された画像を柔らかい色調の画像に効率的に変換する方法をさがしています。WEBの中を探せば、必ずヒントがみつかると思います。

2011年8月10日水曜日

中沢新一著「日本の大転換(上、下、補遺)」を読む

中沢新一著「日本の大転換(上、下)」(雑誌すばる2011年6、7掲載)と中沢新一「『日本の大転換』補遺 太陽と緑の経済」(雑誌すばる2011年8掲載)を読んでみました。

私が興味を持った点と感想を記録しておきます。

興味を持った点 その1 原発と一神教の対応
 A・ヴァリャナック「エネルギーの征服」という書を引用して過去のエネルギー革命(注)を振り返りつつ、原発が生態圏の内部に本来あるはずがない「外部」が持ち込まれたことを明らかにしています。そして、原発に対応する宗教思想が一神教であることを詳しく論じています。一神教もほんらい生態圏には属さない「外部」を思考の「内部」に取り込んでつくられた思想のシステムであることを述べています。
原子力技術は一神教的な技術であり、誤解を恐れず言えばユダヤ思想的な技術である。原子核物理学を創造した科学者と、それを利用して原爆や原発を開発した科学技術者の多くが、ユダヤ人であったという歴史的な事実をさして、そう言っているのではない。生態圏に『外部』を持ち込もうとするその思考方法が、二つを接近させてしまうのだ。

注  過去のエネルギー革命 A・ヴァリャナック「エネルギーの征服」
第1次革命 火の獲得と利用
第2次革命 農業と牧畜
第3次革命 火の工業的利用(金属の武器)
第4次革命 火薬の発明
第5次革命 石炭利用蒸気機関利用
第6次革命 電気と石油
第7次革命 原子力とコンピューターの開発

興味を持った点 その2 リスクにおける、原発と現代資本主義の類似性と同型性
1資本主義は原子核分裂と同じように、人類に特有な「社会」と呼ばれる特殊な生態圏を、破壊する。
2資本主義は原子炉の核分裂連鎖反応と同じように成長を続けなければ成り立たず、そのため、資源とみなされた生態圏の一部を無際限に開発・消費し、廃棄物やco2などのリスクを生み出している。
3原発を最も重要なエネルギー源とする産業形態を発達させ、生態圏をリスクにさらす。

興味を持った点 その3 第8次エネルギー革命
・資本主義システムに組み込まれた原子の「炉」が破綻し。日本文明にとって、まさに文明的危機が出現した。
・エネルゴロジー(エネルギーの存在論)と名づける知の形態の創造が求められる。
・第7次エネルギー革命に内在する過激な構造を、否定的に乗り越えたところに、私たちのめざすべき第八次エネルギー革命は実現される。生態圏は直接・無媒介的な太陽的プロセスとの接触をみずから否定することが求められている。
・どのエネルギー革命も、それに対応する宗教思想や新しい芸術をもっている。第8次エネルギー革命は一神教から仏教への転回として理解することができる。
・第8次エネルギー革命を支える技術の原型を、植物の光合成に見出すことができる。
・原子力発電システムは未来の科学博物館に収められる。

興味を持った点 その4 脱資本主義
・脱原発のさきに、「脱資本主義」の変化を予測できる。
・第8次エネルギー革命は、ほとんど自動的に、現代の資本主義が陥っている内閉性を打ち破っていく力を秘めている。
・贈与性を本質とする太陽エネルギーとの関係を一番の土台とする新しい経済学の出現が求められる。

            中沢新一著「日本の大転換 下」掲載の変化予測
脱原発から脱資本主義への類推による変化予測

興味を持った点 その5 リムランド文明の再生
・日本文明は、ユーラシア大陸が太平洋に押し出してつくった「リムランド(周縁のクニ)」の列島上の形成されてきた。
・不安定な大地の条件の中で、自然力を外に押し戻したり、ブロックしてしまうのではなく、インターフェイスの機構をつうじて、媒介的に自分の内側に取り込む方法が、様々な分野で発達した。
・治水工法、里山などがその例であり、人工と自然のハイブリッドな秩序形成がめざされた。
・経済も同じで、日本文明では、市場経済と社会の間に、精妙なインターフェイスが形成されることによって、相互の媒介関係が長い間保たれてきた。(企業利益と公益とのつながりという商人の倫理など)
・第8次エネルギー革命の原理は日本文明の生成原理と似ている。第8次エネルギー革命の可能性は、日本文明にとっては大きな僥倖である。

興味を持った点 その6 経済における贈与性の浮上
・経済の基層には贈与が原理として据えられている。
・資本主義は経済のいたるところで贈与的な関係を消去してきた。
・しかし、農業が太陽からの贈与で成り立っていることからして、全産業の基礎には贈与性が深く埋め込まれている。
・第8次エネルギー革命は経済の中で交換の思考が拡張されることになり、贈与の次元がより高度な形態として取り戻されるはずだ。
・贈与が経済に組み込まれると、通貨は「地域」の生活に密着した働きをするようになり、さまざまな地域にそれぞれの「地域通貨」が生まれる。

感想 その1 中沢新一の類推力に感心
・原発と一神教と資本主義を対比してその関係を明らかにしていく、中沢新一の知的能力(類推力と関連情報の収集力)の絶大さに一種の感動を覚えました。
・太い思考のルートが既に出来上がっていて、3.11を待つかのように「日本の大転換」が書かれたのだと思います。

感想 その2 社会変革に関連する要素の増大
・9.11の同時多発テロが中沢新一を刺激してカイエソバージュシリーズが出来たものと考えます。その読後感想メモはこのブログ前5記事にアップしました。
・カイエソバージュシリーズの結論書ともいえる「対称性人類学」の読後感想(2011年7月31日記事)で述べたとおり、私(そして人々)が興味を抱く社会変革のアクションに関わるヒントはあまり明示されませんでした。
・ところが、3.11の大震災と原発事故が中沢新一を刺激して(カイエソバージュシリーズと比較すれば)瞬間的ともいえる短時間に書かれた「日本の大転換」には社会変革(第8次エネルギー革命と来るべき経済システム)の方向が明示され、アクション(例 地域通貨)に関わるヒントまでもが述べられています。
・9.11を契機に太い幹と沢山の枝、無数の葉を備えた植物が育ち、蕾が出来ていたところに、3.11というインパクトで一気に花が咲き出したという印象を受けます。
・今後「日本の大転換」という花が大きな果実に結実していくことを楽しみにしています。
・一読者として、学者としての「学」の創造にとどまらず、実務家(会社員、企業家、行政職員、政治家等)に役立つマニフェストに関連する情報発信を、中沢新一に期待します。

2011年7月31日日曜日

中沢新一著「対称性人類学」を読んで

            中沢新一著「対称性人類学」(講談社、2004)

 中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズ全5冊を「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでみました。シリーズ最終5冊目「対称性人類学」は関係情報を集成し総括した内容になっています。従って、私の感想も自分なりに結論的なものになりました。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ
発行:講談社
発行年:2004年2月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.9cm)302ページ
ISBN 4-06-258291-0


2 目次
はじめに
序 章 対称性の方へ
第一章 夢と神話と分裂病
第二章 はじめに無意識ありき
第三章 <一>の魔力
第四章 隠された知恵の系譜
第五章 完成された無意識 ― 仏教(1)
第六章 原初的抑圧の彼方へ ― 仏教(2)
第七章 ホモサピエンスの幸福
第八章 よみがえる普遍経済学
終 章 形而上学革命への道案内
謝 辞
索 引

3 「はじめに」抜粋
「『カイエ・ソバージュ』の最終巻をなすこの第五巻では、シリーズ全体の展開を導いてきた『対称性』の概念を、ひとつの公理系にまで発達させようという試みがおこなわれている。
対称性の考えによって、私は神話的思考の本質をあきらかにしようとすると同時に、『無意識』の働きに格別の価値を回復しようともしている。この点で、『野生の思考』をめぐる構造人類学の可能性を現代に取り戻そうとする私の思考は、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』とまったく同じ土台に立っていると言える。対称性の論理で作動をおこなっている『無意識』は、欠けたところのない充実した流動的知性としての本質をもっている。いっぽうで認知考古学の研究は、現生人類としての私たちの『心』の形成を可能にしたのは、この流動的知性の発生にあったことをしめしている。つまり、『無意識』こそが現生人類としての私たちの『心』の本質をなすものであり、非対称性の原理によって作動する論理的能力は、この『無意識』の働きに協力しあうものでこそあれ、それが人類の知的能力の本質であるなどとはとうてい言えないことがわかる。私はこの対称性人類学という学問をもって、現代に支配的な思考に戦いを挑もうとしている。
こうして神話論(第一巻)、国家論(第二巻)、贈与論(第三巻)、宗教論(第四巻)の全体を巻き込みながら、この第五巻を核として『カイエ・ソバージュ』はひとつの星雲としての姿をあらわすことになった。私はこの本で、対称性人類学という名前をもったひとつの一貫した思考によって、レヴィ=ストロースの神話論、クラストルの国家論、マルクスの経済学批判、バタイユの普遍経済学、ラカンによる無意識のトポロジー論、ドゥルーズの多様体哲学などにしめされた思想の、今日的な再構成を試みようとした。それによって、9・11以後の世界に、真の意味で役に立つことのできる思想というものを生み出したい、と願ったのである。

4 グローバリズムの正体
 この書では最後に、グローバリズムの正体が宗教、社会体制(国家)、経済体制(資本主義)、科学における「形而上学化」という「同型」による世界支配の全面化であることが述べられています。これがこの書の結論であると思います。次のように論が展開されています。

4-1 「形而上学化」という「同型」について
●宗教についていえば、精霊的社会から原初的抑圧が生じて多神教社会が生まれるが、それをさらに全体として抑圧して一神教社会が成立する。その結果、多神教社会にはまだ少しは残っていた対称性無意識とは全く切り離された(形而上学化した)社会が生まれたというプロセスがあります。
●こうした対称性無意識と全く切り離す(形而上学化する)「同型」のプロセスが国家の成立、資本主義、科学にもあることが詳しく述べられています。


            宗教の形而上学化の説明図

            国家の形而上学化の説明図

            資本主義の形而上学化の説明図

4-2 グローバリズムの正体の説明(抜書き)
宗教の領域の形而上学化を完成したのは、キリスト教による一神教です。権力をめぐる人類の思考を形而上学化したところに、国家が生まれてきました。そして、贈与経済で動いていた社会において、富をめぐる思考を形而上学化して、その中から資本主義を出現させたのも、ホモサピエンスの『心』のうちにある、同じ型の思考の働きでした。ここに科学をつけ加えても、なんの問題もおきません。これらはすべて『同型』のプロセスにしたがっています。
『一神教』と『国民国家』と『資本主義』と『科学』-これらがひとつに有機的に結合できる条件をそなえていたのは、地球上に近代の西ヨーロッパをおいてほかにはありませんでした。西ヨーロッパ世界は、社会生活のすべての領域で、数百年をかけて『形而上学革命』をとことんまでなしとげていたので、こういうことが可能になったのです。しかも『一神教』『国民国家』『資本主義』『科学』は、いずれも形而上学の形態として、『同型』をしめしています。超越性をめぐる人類の思考に形而上学化をほどこせば、そこからキリスト教型の一神教が発生します。権力についても、経済的価値についても、まったく『同型』の作用を加えれば、そこから国民国家や資本主義が生まれてこられるようになっています。そればかりか、『具体性の科学』とレヴィ=ストロースに呼ばれた野生の思考を形而上学化すれば、そこから錬金術を通過して、近代科学の思考が生まれ出てくるでしょう。
『同型』による支配が全面化されていくこと-これがグローバリズムの正体なのだと思います。どうして世界はグローバル化していくのか?それはホモサピエンスの『心』に、形而上学化へ向かおうとする因子が、もともとセットしてあるからです。その因子がはらんでいる危険性を昔の人間はよく知っていたので、それが全面的に発動しだすのを、対称性の原理を社会の広範囲で作動させることによって、長いこと防いできました。それを最初に突破したのが、一神教の成立だったのです。その意味では、モーゼとヤーヴェの出会いほど、人類の命運に重大な帰結をもたらしたものもないでしょう。宗教をゆめあなどってはいけません。


5 感想
●私の問題意識「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」に対する感想は次のようなものです。

ア 中沢新一は宗教、国家、資本主義、科学の真の出自、素性を知ることにより、その特殊性、限界を明らかにしています。これを対称性人類学として位置づけています。中沢新一を動かすエネルギーの原点は学問の確立(人類社会の理解)にあるように感じます。

イ 中沢新一が紹介し体系化した知識は人類社会の改善のための(人類社会が生き延びるための)基礎知識として大変重要なものであると感じます。

ウ 中沢新一はこの体系化した知識(対称性人類学)が今後の人類社会改善のために大切であることを例えば次のように述べています。
『神の発明』の中で私は、『神は死んだ』というのは本当かもしれないけれども、その後の世界で私たちは精霊や聖霊や天使の存在を取り戻していく必要があると書きましたが、グローバル資本主義の先に出現すべきものは、このような超細な思考のフィルターをくぐってあらわれる『繊細の精神』を組み込んだ、オルタナティブな資本主義の形態ではないのでしょうか。

エ 中沢新一は9.11から強い刺激を受けてこのシリーズを書いたのですが、このシリーズが当面の社会改善の方策に触れているところはありません。

オ 中沢新一が体系化した知識(対称性人類学)を知れば知るほど、現代社会に対する問題意識が深まり、発言したい事柄も増え、社会改善方策のアイディアも沢山浮かびます。この書はこうした効果を世の中にもたらしていると思います。

カ 私が直接的に期待した現代社会改善方策のヒントになる記述はありませんでした。

キ 結論として、私の質問(問題意識「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」)が適切ではないことがわかりました。この質問を廃棄します。これに変り、次のような質問を設定して、今後の古代や対称性人類学の学習を進めたいと思います。
質問「対称性無意識との繋がりを復活させるような方策とはどのようなものか?それはどのような社会改善効果が期待できるか?」

●このシリーズ特に第5巻は、広い分野の知識を一つの方向に収斂させて、人類社会の文明原理と特性(特殊性と限界)を華麗に明らかにしています。私は期待以上の知識を得ることができ、大いに得をした感じを受けました。

●中沢新一のこのシリーズ(カイエ・ソバージュ)に対する社会の評価について知りたいと思います。

2011年7月24日日曜日

中沢新一著「神の発明」を読んで

            中沢新一著「神の発明」(講談社、2003)

 中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズを「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでいます。今回はシリーズ4冊目「神の発明」です。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:神の発明 カイエ・ソバージュⅣ
発行:講談社
発行年:2003年6月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.2cm)208ページ
ISBN 4-06-258271-6


2 目次
はじめに
序 章 スピリットが明かす神(ゴッド)の秘密
第一章 脳の森の朝
第二章 はじめての「超越」
第三章 神(ゴッド)にならなかったグレートスピリット
第四章 自然史としての神(ゴッド)の出現
第五章 神々の基本構造(1) ― メビウス縫合型
第六章 神々の基本構造(2) ― トーラス型
第七章 高神から唯一神へ
第八章 心の巨大爬虫類
終 章 未来のスピリット
索 引

3 「はじめに」抜粋
この書の要約として読むことができると感じた部分を、抜粋引用します。
はじめ『超越性』の直観は、『スピリット』の活動として表現され、さまざまなタイプの探究が試みられることになった。スピリットはじつにさまざまな呼び名と形をとりながら、あらゆる人間の心に住みついてきた。いろいろな社会のスピリットについての思考や表現を見ていて気づくのは、それが精神的なものと物質的なものとの、ちょうど境界でおこる現象として、奇妙なマテリアリテ(物質そな性)を具えていることである。日本古語の『モノ』ということばの深遠な含意を思い起こしていただくだけでも、そのことはよくわかる。いまでは『超越性』は神(ゴッド)の世界の特性として、感覚の彼方に引き上げられてしまっているが、はじまりの状態でのそれは、形而上でもなく形而下でもない、物質でもなく精神でもない、不思議な第三の原素材としての性格を、はっきりと具えていたことがわかるのだ。
この心の胎児とも心の原素材とも言うべきスピリットが、さまざまなトポロジー変形をおこしていくときに、神の形象がかたちづくられていく。いわば『アフリカ的段階』のスピリットに加えられた最初のトポロジー変形からは、多神教を構成する神々の体系がつくられる。その過程を追っていた私自身が驚いたことだが、そのときに心の中でおこる変形過程は、物理学が『対称性の自発的破れ』と呼んで研究してきた過程と、酷似しているのである。ここにも、原素材としてのスピリットの示す半-物質性の特徴がよく示されている。心の科学と物質の科学は、このようなレベルで確実なつながりを見出すことができる。おそらく、そこが二十一世紀の思考の、ひとつの重要な突破口となっていくのだろう。
唯一神をめぐる宗教的思考でさえ、同じトポロジー変形の過程によって、思考実験的につくりだしてみることができる。私はゲーテの真似をして、思考実験のフラスコの中に、それをつくりだしてみようとした。スピリットに具わったすべての『徳』と『愛』と『超越性』をもってすれば、唯一神をつくりだすことも不可能ではないことを、示してみたかったのである。その結果思いもかけず、今日の世界を覆っている『非対称性の思考』が人類の心に生まれ出る、その運命の分岐点に歩み出てしまうことになった。現代世界のかかえる最大の困難が、そこから発生している。
人間の心が神を発明するのである。ここには、宗教の本質をめぐるマルクスの洞察が大きな影を落としている。唯一神にかかわる神学や形而上学の問題でさえ、物質的な過程と連動した歴史の中でこそ、はじめて真実の意味が理解される。私はこのように理解された『マテリアリズム』の方法を駆使して、この本で、人間の心にほんらい具わった霊性を擁護しようと試みたのである。

4 感想
4-1スピリット
●スピリットについて、この書でとてもよく理解できました。次の文章の意味が深く理解できました。
スピリットは人間の思考や意志や欲望がいっぱいの『現実』の世界からは隔てられ、閉ざされた空間の中に潜んでいますが、完全に『現実』から遮断されたり、遠く離れてしまったりしているのではなく、密閉空間を覆う薄い膜のようなものを通して、出入りをくりかえしているのです。そして、その膜のある場所でスピリットの力が『現実』の世界に触れるとき、物質的な富や幸福の『増殖』がおこるわけです。

●アマゾンの幻覚による内部視覚、神聖図形、日本語の「モノ」の内容などの話題も強く興味あるものでした。

●アボリジニやインドヨーガ行者の瞑想が「超越」に触れる技術であり、「内部視覚」の体験と一体のものであるということも、魅かれた情報です。

●認知考古学として、次のような情報を紹介しており、この書の基盤が強固であることを実感しました。外の事柄を考えるときにも、とても役立つ知識になりそうです。
流動的知性は、異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合わせたりすることを可能にしました。こうして『比喩的』であることを本質とするような、現生人類に特有な知性が出てきたのです。『比喩的』な思考は、大きく『隠喩的』な思考と『換喩的』な思考という二つの軸でなりたっていますが、この二つの軸を結びあわせると、いまの人類のしゃべっているあらゆるタイプの言語の深層構造が生まれるのです。『比喩的』な思考の能力が得られますと、言葉で表現している世界と現実とが、かならずしも一致しなくてもいいようになります。現実から自由な思考というものが、できるようになるわけですね。神話や音楽も、同じ構造を利用しています。ようするに、現生人類の脳におこった革命的変化によって、言葉をしゃべり、歌を歌い、楽器を演奏し、神話によって最初の哲学を開始し、複雑な社会組織をつくりだすことが、いちどきに可能になっていったわけです。

4-2多神教の構造
●グレートスピリットとスピリットの違いが良く理解できました。

●生と死のつながり、縄文土器に描かれた「メビウスの帯」、インド人の輪廻思想も「メビウスの帯」的な新石器思考の名残などの情報は興味津々で読みました。

●スピリット世界の分化、高神High Godtoと来訪神を物理学の「対称性の自発的破れ」で説明していることとその分化の時期と因果を王と国家の発生に重ねて説明しているので、とても説得力のある説明です。

●「御嶽(ウタキ)の神(非対称性、トーラス型の神)、来訪神(低次の対称性、メビウス縫合型の神)」の説明はこの書の中でもとりわけ独創的なものであると思います。それは、柳田=折口説の修正(氏神と来訪神の関係の修正)つまり、氏神は高神=御嶽の神の仲間として旅をしない。来訪神は芸能と祭りが形を変えて果たしていると説明されていることで判ります。

4-3唯一神の誕生
●一神教が成立した過程について次のような説明が行われています。
取り除きや破壊ではなく、『抑圧』がおきたのです。『トーラス型』の宗教的思考によって、『メビウスの帯』のような心の働きを維持しようとしてきた心の機構全体が、抑圧されることによって、表面には出てきにくくなった、そういうやり方で、多神教は一神教に作り変えられたと見るのが、正しいと思います。
この過程は、スピリット世界が多神教宇宙に作り変えられるときにおこったような過程とは、どうも根本的な違いをもっているようです。そのときには、心のトポロジーの構造が、『対称性の自発的破れ』とよく似た精神力学的過程をとおして、ほんものの変化をおこしています。ところが、これまで見てきたとおり、一神教の成立については、そのような心の構造のトポロジーに関わるような、根本的な作り変えはおこっていません。

4-4一神教の影響
●一神教の影響について、この書の最後に次のような記述があります。このような現状認識ができたのは古代からの人々の思考方法を学んだからこそであると思います。素晴らしいことです。古代からの人類の思考方法を深く知ることの意義は重要であり、大切であることが、痛いように判りました。同時に、単純に古代思考方法への回帰が人類にとって起死回生の策であるのか、中沢新一のシリーズ最後の書(「対称性人類学」)に読書を進めたいと思います。
唯一神を生み出すにいたった一神教の思考の冒険は、人間に膨大な知識と富の集積とをもたらしました。現代の自然科学も資本主義にもとづく市場経済のシステムも、もとはといえばキリスト教という一神教が地ならしをしておいた土地の上に、築き上げられたものとして、細かい部分にいたるまで、一神教のくっきりとした刻印が押してあるのがわかります。なぜそんなことが可能になったのでしよう。心の内部を徹底した『非対称性の原理』にもとづいて組織し直すことを、一神教が精力的におこなってきたからです。そして、その原理は、いまや『グローバリズム』という名前のもとに、地球の全域で大きな影響力を行使するにいたっています。
現生人類が『非対称性』に方向づけられて発達させてきた心と、巨大爬虫類の選び取った進化の方向は、たしかによく似てしまっているようです。そのことがどのような恐ろしい未来をもたらすことになるかは、だいたいの結末は私たちにもわかっています。それなのに、大きな方向転換の流れをつくりだすことが、誰にもできないでいるのです。

2011年7月20日水曜日

中沢新一著「愛と経済のロゴス」を読んで

            中沢新一著「愛と経済のロゴス」(講談社、2003)

 中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズを「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでみます。今回はシリーズ3冊目「愛と経済のロゴス」です。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュⅢ
発行:講談社
発行年:2003年1月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.2cm)210ページ
ISBN 4-06-258260-0

2 目次
はじめに
序 章 全体性の運動としての「愛」と「経済」
第一章 交換と贈与
第二章 純粋贈与する神
第三章 増殖の秘密
第四章 埋蔵金から聖杯へ
第五章 最後のコルヌコピア
第六章 マルクスの悦楽
第七章 精霊と資本
終 章 荒廃国からの脱出
索 引

3 「はじめに」抜粋
 この書が野心作であるという著者宣言を少し長くなりますが、抜粋引用します。
贈与を立脚点にすえて、経済学と社会学の全体系を書き直すという野心を、一九二〇年代のマルセル・モースがはじめて抱いた。彼が書いた『贈与論』は、経済も政治も倫理も美や善の意識をも包み込む『全体的社会事実』を深層で突き動かしているのが、合理的な経済活動を可能にする交換の原理ではなく、『たましい』の活動を巻きこみながら進められていく贈与の原理のうちにあることを発見することによって、この野心の実現にむけて、巨大な一歩を踏み出した。しかし、モースは最終的にそれに失敗してしまう。モースは贈与に対する返礼(反対給付〉が義務とされることによって、贈与の環(サイクル)が実現されると考えたのだが、そのおかげで、贈与と交換の原理上の区別がなくなってしまったからである。
 ところが私たちは、贈与の極限に純粋贈与という異質な原理が出現することを、見いだしたのである。いっさいの見返りを求めない贈与、記憶をもたない贈与、経済的サイクルとしての贈与の環(サイクル)を逸脱していく贈与、それを純粋贈与という創造的概念に鍛えあげることによって、私たちはモースが座礁した地点を跳躍台にして、彼の野心の実現に向かって、新しいジャンプを試みたのである。
 すると興味深いことに、経済学で言われる『価値の増殖』にたいして、一貫した理解を示すことができるようになった。そればかりか、贈与を立脚点にすえることで見えてくる経済活動のトポロジーと、精神分析学の示す心のトポロジーとが、基本的に同型であることもあきらかになってくるのであ る。いわばモースとマルクスとラカンをひとつに結ぶ試みとも言えるこの探求をとおして私は、サン・シモン的なアソシエーション社会主義の信奉者であったモースと同じように、グローバル資本主義の彼方に出現すべき人類の社会形態についての、ひとつの明確な展望を手に入れたいと願ったのである。
 それを実現していくためには、どうしてもモースの思考にマルクスと(ラカンによる)フロイトの思考を突入させる必要があった。社会学的思考に欠けているものがあるとすれと、それはモノ(Ding)である。モノは贈与や交換や権力や知の円滑な流れをつくりだすすべての『環(サイクル)』に、いわば垂直方向から侵入して、サイクルを断ち切ったり、逸脱させたり、途方にくれさせたりすることで、『環』の外に別の実在が動いていることを、人々に実感させる力をもっているのである。
 モースの贈与論に、このモノの次元に属する実在を導き入れる必要を力説したのは、『モース著作集への序文』を書いたレヴィ=ストロースだった。彼はそれを『浮遊するシニフィアン』と呼んで、体系の内部を流通している記号や価値と区別しようとした。この『浮遊するシニフィアン』という概念こそ、マルクスが資本主義の生命力である剰余価値の発生の現場で取り抑えようとした、『資本の増殖』の秘密の核心に触れるものであり、またそれは精神分析学が『悦楽』の発生の問題としてとりだしてきたものと、同じ構造をもっていることに、私は気づいた。二〇世紀後半の旺盛な知的活動が、それぞれの領域で見いだしてきたこれら『モノの侵入によって変化をとげた概念』を、ひとつの全体性のうちにシンセサイズすることによって、私は今世紀の知が発達させるべき問題の領域の、ごく大雑把な見取り図を描きだそうと試みた。

4 感想
●中沢新一は、人の経済の全体現象を交換、贈与、絶対贈与の3つのキーワードで説明しています。そのうち絶対贈与の概念はモースにはないもので、この書における鍵となる概念です。絶対贈与の例としてポトラッチなどが出てきます。
●絶対贈与の概念の説明はいろいろな側面から行われています。最初は全くちんぷんかんぷんでしたが、突然次のようなこととして自分なりに理解しました。
絶対贈与の増殖の例…(魔術を行うことにより)狩猟動物が増えること
絶対贈与の消滅の例…(予期しない自然災害で)財産や資源・命を失うこと
つまり、神様のしたこととして理解することしかできない(人に返礼をしたり、返礼を求めたりできない)贈与(破壊)。
●この書では、現在の資本主義の原理がキリスト教を背景にして成立し、その技術思想が自然を挑発し暴き、自然を開発するものであるから、自然が沈黙している、地球が荒廃していると論じています。資本主義の原理がキリスト教を背景に生まれたこと、技術思想が自然挑発型であることなどは中沢新一「モノとの同盟」で既に読んでいましたので概略の理解は(どうにかこうにか)できました。
●洞窟内の男の形而上学的思考(密教)と陽光の差し込む場(顕教)との対比、コルヌコピア、ラカン、マルクス、クリスマスなどの話も示唆に富み、楽しみました。
●著者はこの書の最後で次のように述べています。
人間のおこなう行為としての『経済』の現象が、交換の原理を中心に組織されているのではなく、贈与と純粋贈与というほかの二つの原理としっかり結びあった、全体性をもった運動として描かれなければならない、ということに気づかされました。そして、交換の原理による自然(それは人間の内面の自然であると同時に、人間の外にある自然のことをも指しています) への挑発的な口ぶりの語りかけが続いていくうちに、自然が恐ろしい沈黙に入ってしまう理由を、はっきりと見届けることができました。贈与の原理の破壊が、それをもたらしているのです。
 二一世紀の『人間の学問』では、いまある形の経済学をいまだ未知に属するこのような全体性の一部分として組み込んだ、より拡大された新しい『経済学』というものを創造していかなくてはならないと思います。

 私の問題意識「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」から見ると、交換の原理から贈与、絶対贈与の原理に軸足を移した社会にするという方向はとても魅力的でかつ現実に即したものに感じます。人類社会の原理を変更するという提案です。その具体策に関連する考察に遭遇したいと思います。

2011年7月18日月曜日

中沢新一著「熊から王へ」を読んで

            中沢新一著「熊から王へ」(講談社、2002)

 中沢新一のカイエ・ソバージュというシリーズの2冊目「熊から王へ」を「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでみます。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ
発行:講談社
発行年:2002年6月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.6cm)244ページ
ISBN 4-06-258239-2


2 目次
はじめに
序 章 ニューヨークからベーリング海峡へ
第一章 失われた対称性を求めて
第二章 原初、神は熊であった
第三章 「対称性の人類学」入門
第四章 海岸の決闘
第五章 王にならなかった首長
第六章 環太平洋の神話学へⅠ
第七章 環太平洋の神話学へⅡ
第八章 「人食い」としての王
終 章 「野生の思考」としての仏教
補 論 熊の主題をめぐる変奏曲
索 引

3 「はじめに」抜粋
「ニ冊目のカイエ・ソパージュでは、『国家』の誕生のことが話題になる。人類の脳のニューロン組織に決定的な飛躍がおこり、いまの現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)の『心』が生まれたのが、後期旧石器時代のことであったとすると、それから二万年以上もの間は、そのニューロン組織を使って、神話的思考が発達していったことが考えられる。その頃は私たち現生人類の『心』では、二元性(binary)にもとづく思考がおこなわれ、ものごとは「対称性」を実現すベく細心な調整をほどこされていた。
 そこにはまだ『国家』はない。それが出現するのは、この対称性を覆すべくして人間の意識におこった変化をきっかけにしている。現生人類の脳のニューロン組織は、そのときにはもう完成してしまっているから、このときおこる変化は、生物的進化の要素はまったく含まない。脳の構造もまったく同じ、能力にも変化はない。しかし、その内部で『力の配置』の様式が、決定的な変化を起こすのである。
 そのとき、世界に対称性をつくりだそうとしてきた『心』の働きが、急転回を起こして、それまでの首長のかわりには王が出現し、共同体の上に国家というものが生まれることになった。それと同時に、人間と動物との関係、『文化』と『自然』の関係にも、大きな変化が発生して、人間の世界はいまあるような姿へと、急速な変貌をはじめたのだった。
 おりしも世間では、『文明』と『野蛮』の対立をめぐって、さまざまな議論が戦わされているが、このような概念の使用法そのものに、この本は異議を唱えようとしている。話題に登場するのが、熊や山羊や鮭やシャチのことだからといって、私が現実への『不参加』をきめこんでいるなどと、誤解しないでいただきたい。ただ少しばかり想像力を働かせさえすれば、毎回の講義が、リアルタイムで進行中の歴史との、張りつめた緊張関係を保ちながら進められていることが、おわかりいただけると思う。

4 感想 その1
●野蛮について
要約
・9.11は富配分の極端な非対称による。テロも、報復も野蛮。
・狂牛病や口蹄疫罹患動物の悲劇は現代社会の野蛮だ。狩猟社会では動物はこのようには扱われてこなかった。
・野蛮は現代社会に内部に組み込まれている。
・「このような状況からの脱出の糸口を探っていくためには、私たちの世界の内部にどのような道筋で『野蛮』がセットされるようになったのかが、深いレベルで理解されなければなりません。神話について考えることは、たんなる学問的な興味や趣味の問題を越えて、じつに今日的な意味をもっていると、私は考えるのです。」(16p)
感想
・中沢新一の問題意識は、9.11や狂牛病問題が社会に内蔵されている野蛮に起因するもので、そうした状況脱出の糸口をみつけようとしていることと、神話について考えることが結びついているとしています。

●対称性知性について
要約
・「しかし人間が非対称の非を悟り、人間と動物との聞に対称性を回復していく努力をおこなうときにだけ、世界にはふたたび交通と流動が取り戻されるだろう。このように語る知性ははたして無力なのだろうか。それとも、それを現代に鍛え上げていくことの中から、世界を覆う圧倒的な非対称を内側から解体していく知恵が生まれるのだろうか。いずれにせよ、狂牛病とテロが、対称性の知性をもういちど私たちの世界に呼び覚まそうとしていることだけは、たしかである(「圧倒的な非対称」、『緑の資本論』集英社、2002年)。」(218p)
・「この講義は、そこで立てられた問いに、一つの解答を与えようとしたのでした。対称性の知性を鍛え上げていくことの中から生まれた仏教は、巨大国家つくりだす圧倒的な非対称の状況に拮抗して、世界を変えていく力を発揮してみせたことも、かつてはあったのですから、現代の私たちがそれに勇気を得て、新しい思想の試みに出かけていくことも可能なのだというメッセージを、この講義は伝えようとしました。」(219p)
感想
・もう一度対称性の知性を呼び覚まして世界を変えていくという哲学的メッセージを中沢新一が発していることをこの書で確認しました。
・私の問題意識「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という問に中沢新一が「その通り」と答えたことになります。
・ならば、私の次の問題意識は
1対称性知性回復の道筋は?具体的方法は?対称性知性の中身は?など対称性知性回復の具体化
2その対称性知性を使った現代社会改善の道筋、方法
などに移ります。

5 感想その2
●宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」の話は対称性知性を考える上でとても上等な例示であると考えました。
●山羊の神話、熊の神話、シャチの神話、魚の神話など興味深くよみました。対称性の意味が良く理解できました。
●闘牛が旧石器時代の人の活動に起源を有するかもしれないという説明には、虚をつかれたような新鮮さを感じました。
●首長、シャーマン、将軍、王の力の源泉が良くわかりました。ジェロニモの例で国家のない社会の指導者についてよく判りました。
●特に、首長の3つの特性(平和、気前よさ、歌い踊る)が政治の根源をしめしているという論は、その通りと手を打ちました。
●折口信夫の「ふゆ」、花祭、アザラシ結社「ハマツァ」儀礼、「人食い」などの情報を一つの文脈で捉えることができることは痛快です。中沢新一の文章の雄大さです。
●スサノオ神話で説く国家の誕生はわかりやすいものでした。
●文明=野蛮の発生(非対称の発生)を基盤に国家が発生しているから、国家が野蛮を撲滅できないと中沢新一は話しています。アナーキズムにまで論を発展させています。「それはそうだけれども、そこまで掘下げるのならば、そのような論にこれからついていけるのかという気持ちになります。」
●このような心配を払拭するためにであるかのように、「野生の思考」としての仏教を最後に論じ、国家がある社会の中で仏教が「国家というものが誕生して以来押されっぱなしで、すっかりぱっとしないものになっていた、国家を持たない対称性社会の重要な構成原理のいくつかが、文明的に洗練されたかたちにカムフラージュされて、堂々と復活を果たしている様子を、すでに見届けてきました。」(215p)と述べています。
●仏教についての基礎知識が不足する私にとって、仏教が対称性社会復活の起死回生策であるのかどうか、確信は全くありません。とりあえず、中沢新一がそう述べているとだけ理解しておきます。

2011年7月14日木曜日

中沢新一著「人類最古の哲学」を読んで

            中沢新一著「人類最古の哲学」(講談社、2002)

 学習の寄り道になってしまうのですが、中沢新一のカイエ・ソバージュというシリーズを通して読んでみます。全体を通して、「古代社会において人類が開発した思考方法(「モノとの同盟」、「対称性思考」などのキーワードに関連する思考方法)が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでみます。

 最初は「人類最古の哲学 カイエ・ソバージュⅠ」を読みました。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:人類最古の哲学 カイエ・ソバージュⅠ
発行:講談社
発行年:2002年1月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.2cm)216ページ
ISBN-13:978-4062582315

2 目次
はじめに
序 章 はじまりの哲学
第一章 人類的分布をする神話の謎
第二章 神話論理の好物
第三章 神話としてのシンデレラ
第四章 原シンデレラのほうへ
第五章 中国のシンデレラ
第六章 シンデレラに抗するシンデラレ
第七章 片方の靴の謎
終 章 神話と現実
索 引

3 「はじめに」抜粋
「さてCahier Sauvageの一冊目では、神話が主題となる。いずれのタイプの形而上学革命も起こる以前、とりわけ国家や一神教が発生する以前の人類は(旧石器時代の後期から)、この神話という様式を用いて、宇宙の中における自分たちの位置や、自然の秩序や人生の意味などについて、深い哲学的思考をおこなってきたのである。神話はのちの宗教とはちがって、どんなに幻想的なシチュエーションを思い描いているときにも、現実世界への強烈な関心とその世界を知的に理解したいという欲求を、失うことがない。現実の世界を犠牲にしてまで、観念や幻想の世界に没頭しようという非現実性に陥ることが、神話にはけっしてなかったのである。」

4 感想
●神話が宗教とは違い、現実との関係を保持しながら、(現代において哲学といわれる)思考内容を含んだものであるということが、説得力ある事例で理解することができました。神話が最初の哲学であるとの表現が理解できました。

●神話が「感覚の論理」を使って複雑な思考を、感覚的対立に置き換えて直感できるようにしているという説明は、貴重な知識であると感じました。

●旧石器時代から新石器時代に移行する時期にユーラシアにおいて広く均質な神話が共有され、その核となるようなものの断片が、現在世界各地の神話に残っているという発想は、雄大な発想であり、精度はべつとして、ロマンと魅力に満ちたものです。

●シンデレラの話が汎世界的なものであるということは、以前南方熊楠の本などで接したことがありました。しかし、シンデレラの話を石器時代の死者と生者の間を取り持つシャーマンの話にまで結びつける中沢新一の学習発想力に強く感心しました。シンデレラが落としたガラスの靴にそのような意味があると初めて知りました。

●ケルト、ポルトガル、トルコ、中国のシンデレラ、あるいはベニテングダケの話など、知識としては興味津々でした。

●私は以上のような知識が「現代人類社会を救世する思考」と関連付けられることを期待してよんだのですが、その点では少し期待はずれでした。神話の内容を深く知ることが、アニメ製作などバーチャル面の創造世界に大切であるという例は話されているのですが…。私の期待感があまりに大きすぎたのかもしれません。

●このシリーズは全部読んでみたくなりました。

2011年6月24日金曜日

中沢新一「モノとの同盟」に関してもやもやすること 2


 岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習をはじめて、その学習の一環として「モノとの同盟」に興味が集中しました。中沢新一と折口信夫も少しだけかじってみました。
 そして次のような疑問が浮かび前回記事でメモしました。
1 中沢新一「モノとの同盟」の提案原理はどこのあるのか
2 現代文明の危機意識
3 情報社会のあり方

 そして、何気なく「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一、朝日新聞社)を読んでいると、次のような話が出ていて、私の上記疑問にまとわりついてきます。

河合―非常に困ったことは、いま世界を席捲している科学技術はキリスト教から出てきている。キリスト教がなかったら生まれてこないと思う。ここをどのように考えるかという非常にむずかしい問題が僕はあるように思うんです。(中略)
ところが、『華厳経』を読んでいたら、科学技術も全部入るんじゃないかという気もしてくる。また片一方から言うと、宗教と科学の問題をいちばん解決する力を持っている宗教が仏教ではないか、という考え方もだんだんしてきたわけです。それも考えてみたいという気があるんですね。

中沢―まったく同感ですね。たぶん「仏教とは何か」ということがそこに関わってくるのでしょう。科学と宗教を媒介する場所に立てるのが仏教だと思います。それができるんですよ。なぜそれが仏教にできるかというと、仏教は「野生の思考」から発達した思想として、一面で科学なのですね。「野生の思考」と科学というのは、本質的には対立しないのだと思います。それどころか科学がやってきたことをすべて準備したのは、実際に「野生の思考」にほかなりません。新石器時代人がフリント(火打ち石)を加工しているときにおこなっていた思考は、現代の科学者が研究室で最新の実験器具を使いながら働かせている思考と、まったく同じ能力を使っています。考古学があきらかにしているように、この三万年ほど、人間の大脳の構造は変化していません。ところが、西欧の現代(近代)科学だけは異常な発達をするわけでしょう。そうすると、人間が本来持っている科学や技術の能力というものと、現代科学として異常発達しているものの間には、何か別の要素が加わっているのではないでしょうか。この別の要素というのがギリシャとキリスト教とに関わっているのだと思います。科学技術そのものは、ギリシャ=キリスト教的な何かの要素が加わらないかぎりは、現代科学のような形で急速な発展を遂げなかったと思います。」

 仏教自体のことは(興味が湧きますがとりあえず)さておき、現代科学技術の問題を解決するための道筋を、中沢新一が考えていることをこの文章から十分に察知しました。

 次に(どうしてそうなったのか自分でもわかりませんが)、衝動的に手許の「熊から王へ」(中沢新一、講談社)の「はじめに」の部分を読んでみました。要旨次のようなことが書いてあります。

……………………………………………………………………
熊から王へ(中沢新一、講談社選書メチエ)
はじめに カイエ・ソバージュ(Cahier Sauvage)について

第一次「形而上学革命」
一神教の成立(新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立)
(「野生の思考」と呼ばれる思考能力を抑圧した。)
宗教は科学を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。

第二次「形而上学革命」
科学革命
「野生の思考」と呼ばれる思考能力が装いも根拠も新たに「科学」として復活を遂げる。
宗教を否定して、科学は地上のヘゲモニーを獲得した。

第三次「形而上革命」の見通し
「それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、量子力学的世界観の生活と思考の全領野への拡がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の聞いた地平を科学的思考によって変革することによってもたらされるであろう。」
……………………………………………………………………

 この文章から、中沢新一は、ギリシャ=キリスト教でバイアスがかかり急発展した科学技術を、人類が既に持っている別の思考方法で変革する社会必然について考えていることを知りました。

 古代社会においてすでに人類が開発した思考方法(「モノとの同盟」、「対称性思考」などのキーワードに関連する思考方法)が、現代において提案される原理が直感でき、それについてさらに学習を深めたくなりました。

 早速次のカイエ・ソバージュ選書等の入手を手配しました。
「人類最古の哲学」、「愛と経済のロゴス」、「神の発明」、「対称性人類学」(以上中沢新一)、「野生の思考」(クロード・レヴィ・ストロース)

「1 中沢新一『モノとの同盟』の提案原理はどこのあるのか」という疑問は、上記書籍等を学習することで解決できる見通しとなりました。

 中沢新一の発想・知識の雄大さに感動し興味を深めています。また、それをテキスト「ジオパークについて」や「劇場国家にっぽん」で紹介していただいた岩井國臣先生に感謝します。

2011年6月19日日曜日

中沢新一「モノとの同盟」に関してもやもやすること


 岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習をはじめて、その学習の一環として「モノとの同盟」に興味が集中しました。中沢新一と折口信夫も少しだけかじってみました。

 そこに書かれている内容は私の知識欲を満たしてくれるものであります。古代人の思考様式とそれに関連する諸知識は私の他の活動(地域の歴史や特徴の把握)にも大いに役立つものです。

 一方、次のような問題意識がだんだんと大きくなっています。もやもやしていて明解な考えにいつまでもならないので、とりあえず、そのままメモして記録しておくことにします。

1 中沢新一「モノとの同盟」の提案原理はどこにあるのか
 中沢新一「モノとの同盟」では、事例として、現代社会における「生命現象の物質還元」や「資本主義が贈与の空間を消滅させ、自ら価値増殖をおこなう」点などを挙げて、現代文明の危険を察知し、その回避の哲学として「モノとの同盟」(狩猟社会の思考の復活)を提起しています。

 狩猟社会の思考が現代文明の危険の素をつくった思考と異なることはよくわかります。
狩猟社会の思考が現代から見ると自然と調和した思考であり、自然に対して「信」や「礼」のあるものであることもよくわかります。
その思考で世界をつくることができればとても魅力的です。

 しかし、だからといって、狩猟社会の思考方法の復活を現代社会に無条件に復活適用させるという発想はありえません。狩猟社会の思考は役割を終えて、その後の農業社会、工業社会、情報社会の思考に取って代わられてきているわけです。既に一度陳腐化して社会の最前線から退いた思考です。その思考の復活適用に当たって、なんらかの原理的説明が必須です。情報社会のあり方の中でその提案が説明される必要があると思います。

2 現代文明の危機意識
 現代文明に対する現状認識(危機意識)の深さによって「モノとの同盟」の理解が異なることは想像できることです。

 現代文明にさしたる危機を感じなければ、魔術世界の思考復活などありえません。
 迫り来る地球規模での飢餓を想定するような文明危機意識があれば、狩猟社会の思考を取り入れた新しい人類の哲学が必要になるかもしれません。

 東日本大震災を契機にして、震災だけでなく、地球規模での文明的危険についても考える必要があります。

3 情報社会のあり方
 2と関連しますが、工業技術に替わって情報技術が人類社会全体を変革しつつある現在、その人類社会変革に必要な新しい哲学が求められているのだと思います。その新しい哲学がどのようなものであるか。情報社会が必要とする新しい哲学の中で「モノとの同盟」がどのような座席を得るのか、興味があります。

2011年6月12日日曜日

折口信夫「霊魂の話」を読んで

            折口信夫全集第三巻古代研究(民俗学篇2) 中公文庫版

 折口信夫全集第三巻古代研究(民俗学篇2)の中公文庫版古本をWEB購入し、「霊魂の話」を読みました。自分自身の過去の行動特性を踏まえると、折口信夫全集を手元に揃えるのは時間の問題であると感じましたので、とりあえずの読書のために、WEBで最安値本を入手しました。

 読書後「青空文庫」(著作権切れ著作物の公開サイト)にこの「霊魂の話」が掲載されていることを知りました。この論文だけを読みたい方はWEBで全文テキスト入手あるいは画面表示による閲覧読書が可能です。

1 この論文の特徴
初出情報として、郷土研究会講演、昭和4年9月「民俗学」第1巻第3号と出ています。
文庫本17ページの小論文が15節に分れ、それぞれに小見出しがついています。論文全体が俯瞰でき、また節の読みきりがしやすいです。82年前の論文とはとても思えない簡明性があります。理解しやすい論文です。

2 中沢新一の引用の的確性のチェック
この論文を読んだ理由は次の2点あります。

ア 地域づくりの哲学的基礎に関する興味を深める(興味を満たす)ためです。岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」→岩井國臣著「劇場国家にっぽん」→中沢新一「モノとの同盟」→折口信夫「霊魂の話」と読書が続いています。

イ 中沢新一の引用を確認し、その的確性をチェックすることです。学者の著作物を素人がチェックするという表現はすこしおこがましいですが、最初の読書では必要だと思いました。

以上の読書理由のうち、イのチェックという面でいうと、折口信夫が話している内容を中沢新一は間違いなく伝えていることを確認しました。

同時に、折口信夫の話している内容に中沢新一が新しい生命を与えていると強く感じました。折口信夫の著作を生き返らせているという印象を受けました。チェック的意識も持って「霊魂の話」を読んでよかったです。

 折口信夫の古代に深く掘り込んでいく探求の成果を、中沢新一は現代世界の根本問題解決のヒントとして利用しようとしています。未来を志向しています。岩井國臣先生は現実社会問題解決のための哲学(地域づくりの哲学)形成をめざし、その柱の一つとして中沢新一のヒントを活用しています。

3 興味を深めた点
 たまの分化、発生の3段の順序が日本人の思考を理解する上で大切であり、その理解が必須であったことに、ようやく気がついたという印象をもちました。
それを理解することにより、「ものいみ」「石に関する民話」「漂着石や漂着神」「石こづみや古墳」「山伏など山岳信仰」の理解が進みました。知識の幅を広げることができたと実感できました。

 次にこの論文のメモをフリーマインド(フリーソフト)でまとめました。

            折口信夫「霊魂の話」のメモ

2011年6月5日日曜日

小泉保著「縄文語の発見」読後の感想


1人類学と考古学の進展を踏まえている
 小泉保は「縄文語の発見」の前書きの中で、人類学と考古学の進展を踏まえて縄文時代の言語を特徴付けることが国語学、言語学の責務であると論じ、実際にこの書の第1章縄文文化と第2章縄文人はそれぞれ考古学と人類学の最新成果のサマリーとなっています。それを踏まえて、第3章以下の言語学的考察が行われています。第1章縄文文化、第2章縄文人は文章も分りやすく、私にとって縄文の基礎知識を体系的に知る機会ともなりました。

2日本語起源論の学説を体系的に紹介している
 日本語起源論の学説を体系的批判的に紹介して、それぞれの問題点を明らかにしているので、著者の論じる縄文語起源、縄文語から現代語までの遷移過程が客観的に理解できるようになっています。
 日本語起源の学説は次の3つの型に分けて説明しています。
(1)同祖論(琉球、朝鮮、モンゴル、ツングース、アルタイ、南島諸島、タミル、チベット・ビルマ)
(2)重層論(南方語の上に北方語、北方語の上に南方語、多重説〔古極東アジア語、インドネシア系言語、カンボジア系言語、ビルマ系江南語、中国語〕)
(3)国内形成論(北九州に発生した邪馬台国の言語→東進→畿内方言を征服、日本祖語となる)

3縄文語を比較言語学手法により探し出している
 縄文語を比較言語学手法をツールにして、柳田國男の方言周圏論を参考に探し出しています。
専門的には、弥生語の特色である方言分布、アクセントの発生、特殊仮名遣いの成立、連濁現象、四つ仮名の問題などを探し出した縄文語から解き明かすことによって、縄文語の正しさを証明しています。

4縄文語の成立
 著者は縄文語の成立に関して次のように述べています。
「ただ一つ確実ではないかと考えられることは一万二千年前の氷河期が終わった時点で、人類学者が言うように、南方のスンダランドに住んでいた原アジア人が北上してきて日本列島へ移住したという仮説が正しければ、スンダランドで交流していた南方系民族の言語要素が持ちこまれたことは不思議ではない。この観点から、大野氏の主張するタミル語との類似性や安本氏が算定したビルマ系、カンボジア系、インドネシア系の語彙それに村山氏、川本氏、崎山氏らが主張するオーストロネシア系の単語と日本語との近似性を否定することはできない。また、弥生期に入り二千年前に北九州方面に来入した渡来人により中国語的語彙が日本語に注入されたこともうなずける。
なお、スンダランドから日本列島へ渡ってきた諸種の言語を話す部族の中にアイヌ人も混じっていたと考えられる。ここにアイヌ人の南方起源説の根拠がある。アイヌ人は列島を北上し北海道の一隅で他の部族とは隔離した状態で生活をつづけてきたのではないだろうか。そして、いくつかの他の不明な異種言語は、互いに競合する内に傑出してきた原縄文語に吸収融和してしまったのではないだろか。」

5縄文語から現代日本語にいたる遷移
 著者は次の文章に示される考えに基づいて、縄文語から現代日本語にいたる言葉の遷移を体系だって説明しています。
「とにかく、弥生時代に弥生語なるものがすベての縄文諸語を一掃しこれと入れ替わったと憶測する必要はない。現在われわれが話している方言を逆に手繰っていけば、縄文基語に達するであろう。弥生語も縄文語の一変種にすぎない。ただ政治的中枢を握った人たちの言語として文化的に優位に立ち、他の方言に強い影響力を及ぼしてきたことは認めなければならない。要するに、日本語は縄文文化と共に始まったと考えてよいと思う。そして一万年にわたる伝統をもっていることになろう。これは島国という立地条件に負うところが大きい。」


            縄文語から現代日本語にいたる遷移
 著者はこの図を次のように説明しています。
「図面の中の点線は影響力を示している。日本列島では太古の昔、前期九州縄文語から表日本縄文語と裏日本縄文語が分派し、さらに琉球縄文語が分離したと考えられる。やがて表日本縄文語の子孫が山陽・東海方言となり、裏日本縄文語の方は末裔の東北方言とつながっている。また、前期九州縄文語から別れた琉球縄文語から琉球諸方言が生み出されるに至った。紀元前後には、前期九州縄文語を受け継いだ後期九州縄文語と裏日本縄文語に渡来語が作用して弥生語が形成された。この弥生語の直流の資格をもつのが関西方言である。他方、裏日本縄文語に表日本縄文語が働きかけて関東方言が作り上げられたようである。以上が縄文期から現代に及ぶ日本語成育の足取りであると推考する。」

            後期縄文語方言地図(推定)

6感想
 この書には沢山の言葉の起源検討事例が出てくるのですが、残念ながら「もの」についての事例はありませんでした。しかし、狩猟社会(縄文時代)の言葉が渡来語の影響を受けたにしろ、基本的にそのまま現代日本語に繋がっていることがこの本で分りました。そのことから、私が、岩井國臣→中沢新一→折口信夫と原典を遡り興味を深めている「もの」ということばも縄文時代には使われており、だから狩猟社会の思考方法がその言葉に浸み込んでいると素直に理解できます。

2011年6月3日金曜日

小泉保著「縄文語の発見」紹介

            小泉保著「縄文語の発見」(青土社、1998)

 中沢新一「モノとの同盟」に強い衝撃を受けています。「もの【物】」という日本語に狩猟社会の思考方法が埋め込まれているという指摘に心がざわめきました。その思考方法がこれからの世界に必要不可欠かもしれないという問題提起として受け止めました。「モノとの同盟」の具体化、方法、展開の話しはほとんど無いけれど、それは人類史的な意義のある大転換であるがためであり、安直には話せないものだからであると理解しました。
 この知的衝撃を受けて、早速折口信夫全集第3巻「古代研究 民俗篇2」を入手しました。読書チャレンジして、ものについての学習をさらに深めたいと思っています。大護八郎「石上信仰」、石上堅「石の伝説」、小林達雄「縄文の思考」、小林達雄「縄文人の世界」などの読書と合わせて古代の思考に対する興味が高まります。

 一方、私は趣味で千葉県北西部の小河川花見川流域を散歩し、気がついたことをブログ「花見川流域を歩く」で情報発信しています。この中で、河川名「花見川」や地名「花島」、「猪の鼻」、「花輪」など「ハナ」名称に興味をもち、柳田國男の説を援用して「ハナ」が縄文時代起源の「台地の突端」の意味の言葉であるだろうなどと議論しています。

 以上二つの取組から、言葉の意味、内容だけでなく、日本語という言葉そのものの起源にも興味を持ちました。
 「もの【物】」、「はな【端、鼻】」という言葉が縄文人に使われていたのか(縄文語彙であったのか)、言語学的に裏を取りたくなりました。

 そのような観点で小泉保「縄文語の発見」を読んでみました。
 ここでは、本そのものを紹介します。

1 諸元
著者:小泉保
書名:縄文語の発見
発行:青土社
発行年月日:1998年6月15日
体裁(19×13.8×2.4cm)279ページ
ISBN-13:978-4791756315

2 目次
まえがき
第1章 縄文文化---考古学の立場から
第2章 縄文人---人類学の立場から
第3章 日本語系統論
第4章 縄文語の復元
第5章 弥生語の成立
第6章 縄文語の形成
参考文献
あとがき

3 「まえがき」全文
「われわれが家系を尋ねるときには、父、祖父、曾祖父という順に過去へと溯っていくのが常道である。しかるに、日本語史や系統論では、なぜか祖父の時代から日本家が始まり、曾祖父は血のつながらない異質不明の人物と思いこんできた。ここで言う祖父は弥生時代の言語を、曾祖父は縄文時代の言語を意味している。つまり、弥生期の言語と縄文期の言語の間に血脈の断絶があったと決めてかかっていた。そうした確証はなにもないのに、断絶の憶説にいまも研究者は縛られているのである。
 そのため、系統論はいきなり日本語の祖先を特定しようとして、日本の北方に南方に親類縁者を探し求めてきたが、結局それらしい相手を見つけることができなかった。言語の血縁関係を認定するのには「規則的音声対応」という判定法がある。この方法により身元の証明ができたのは琉球語のみである。琉球語は間違いなく日本語の分家である。その他の類縁性が想定されている言語については、類似していると思われる語彙や文法特徴をいかほど数えあげてその親族関係を主張し合っても、規則的音声対応が取り出せないかぎり、水掛け論に終始することになるであろう。
 日本語の経歴を探究するに当たって、まず曾祖父の言語すなわち縄文時代の言語の解明が大前提をなすと筆者は考えている。弥生(時代の言)語が縄文(時代の言)語を駆逐して、それに入れ替わったとする証拠は何もない。日本語の方言分布を念入りに調べていけば、必ずや縄文語の様相をとらえることができるであろう。たとえば、出雲の方言がなぜ東北弁と同質であるかという問題に納得のいく解説を施すためには、縄文時代の言語情勢を推定し、そこから説き起こす必要がある。
 弥生語の一代前の縄文語は、弥生語の特色を説明できるものでなければならないと思う。その特色とは、専門的に言えば方言分布、アクセントの発生、特殊仮名遣いの成立、連濁現象、四つ仮名の問題などである。こうした問題を解く鍵が縄文語の中に隠されているに相違ないであろう。いままで、これら課題の究明は決して十分であったとはいえない。こうした音声的諸事項の因子をはぐくんだ縄文語の実体を明らかにするのが本書の目的である。
それに戦前戦後をとおして人類学と考古学は驚くべき進展をとげ、一万年に及ぶ縄文時代の輪郭を掘り出してくれている。これに応えて、縄文時代の言語を特徴づけることが国語学、言語学の責務であると考える。
 そのためには、日本語の方言形に比較言語学の手法を適用して、その祖形を求めるとともに、方言の分布について地域言語学的考察を加えて、まず縄文晩期の日本語の姿を再構したいと思っている。
 また、縄文語の解明は考古学と人類学の実績に裏づけされたものでなければならない。これを無視していきなり日本語の元祖の身元を割り出そうとすると、牽強附会にみちた空理空論になるおそれがある。
 さらに、日本語の歴史は、縄文語を後期、中期、前期と順次溯ることにより体系づけられるものと信じている。それには、考古学と人類学の縄文時代に関する予備知識が必要となるので、その概略を述べてから、先賢たちの日本語の系統論を紹介し、その後で縄文語へとアプローチすることにしよう。
 小泉保」

4 私のメモ
 考古学と人類学の成果を紹介してから、過去の日本語系統論を体系的かつ批判的に紹介し、最後に著者自身の縄文語へのアプローチについて述べていますので、大変分りやすい構成の本となっています。日本語起源について大変説得力のある論理展開がされている本だと思います。

2011年5月29日日曜日

中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 3


3 モノとの同盟
第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)
・タマ、モノをめぐる折口信夫の考えは、モースの「贈与論」から知識を得てヒントとしているとしています。
・タマ-モノとマオリ族のハウ-マウリが共に増殖性や多産性と結ばれておりその思考の類似性について詳しく説明しています。
・マオリの社会では「霊的なもの」と「物質的なもの」は区別されていない、霊と経済とはそこでは一体であり、存在論と幸福論も、そこでは一体をなしているとしています。
・折口信夫の著作(「原始信仰」)を引用しています。
・また、狩猟時代の日本でも「霊的なもの」と「物質的なもの」が区別されていない世界を次のように鮮やかに描いています。
・「狩猟時代の古い日本語をしゃべる人々に、あなたたちの幸福とはなんですか、という質問をしたならば、『それはあなた、さちの力によって、森のタマ(霊力)が動物のからだというモノをまとってあらわれたその動物たちを、うまく仕留めることができることですよ。そうすれば、タマの霊力が私たちにも分け与えられ、生命は増し、私たちはこよない幸福(さち)を味わうこともできるのです』などという答えが、返ってくるにちがいない。『さち』ということばは、この場合、モノという容器(これが狩猟の場合には、動物のからだということになる)に含まれて人間の前にあらわれた森の多産力をあらわすタマを、その容器を破壊することによって、抽象的な力として取り出して、自分たちの体内に取り入れるための、一連の技術(技芸)とそれに使用される道具のことを指していた、と考えることができるだろう。」
・狩猟の過程と鎮魂の過程が鏡面対称のような関係にあることもタマとモノの関係から説明しています。
・そして、このような狩猟社会の思考法が、ピュシスの思考における技術が不合理な「増殖」に結び付けられているのと違い、増殖や変容や分裂に適用され、真理ではなく、人間に具体的な幸福(さち)を与えるものだと説明しています。
・さらに、狩猟社会の思考法の豊かさと広がりを次のように説明しています。「しかも、そのモノ的技術は人間の宗教の根源である『信』ということに、深くかかわってもいる。狩猟社会の人々は、モノ(動物や植物のからだ)に化身した森のタマが、自分たちに自然の賜物を贈与してくれていることを、深く信じていればこそ、あやういギャンブルのような行為を続けていることができる。そこからは『信』も発生すれば、『礼』も発達する。人々は森のタマシヒの本性は『善』であり、その『善』なる力はみずから増殖をおこなって、『ある』の世界を豊かなものにつくりだしている、と信ずることができただろう。人はそれに対して『礼』をつくす必要がある。むさぼらず、必要以上に奪うことなく、大いなるものの前にはつつましく頭を垂れるのだ。」
・著者はこのような「“ある”の哲学」はハイディッガーの哲学より豊かで、その表現はネイティブアメリカンの精神的伝統やチベットの仏教的精神や神道の自然哲学などにかろうじてみいだすことができるだけになってしまったと指摘している。
・この節の最後に、今日の世界で物質的な増殖は恐るべきものであるが、「物の増殖」を包み込む全体性の直観は失われてしまっているために、モノははじめから物でしかなく、価値としての同一性を絶対に失わないと述べています。
・そして結論として、「このような世界を物質主義と呼んで、それに精神なるものをもって対抗しようとしても無駄なことだ、と私は思う。それよりも重要なのは、物質でもなく精神でもない、モノの深さを知って、それを体験することだ。モノは技術の本質をあらわす。そしてそれは同時に、宗教と倫理のはじまりにつながっている。精神と物質を分離した瞬間に、そういうモノは見えなくなってしまうのである。」と述べています。
第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)感想
・この論文の中で最も面白い(私の知的興味を満足させてくれる)部分がこの節です。
・この節で述べていることが、「新しい唯物論の創造」を考えていく一つのヒントになるような気がします。
・狩猟社会の思考法、モノの思考法が現代社会に有用である可能性を、私に予感させてくれる節です。

第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)
・著者は「タマ-モノの場合にもハウ-マウリの場合にも、大いなる同一性の内部から増殖ということがおこっている。狩猟社会における『はじまりの』思想家たちは、この同一性をひとつの概念のうちに固定しようとはしなかった」と述べています。
・ユダヤ教やキリスト教のように、不変の同一性のままに「創造されることもなく」「変化することもなく」「正義そのものである」ような神が、ただひとつの神の概念として、大きくクローズアップされてくる宗教においては、現実の生活の中でしめされている恩寵や贈与や増殖の問題を、その神の概念のうちに包摂していくことが、思想家たちに大きな課題をつきつけると著者は述べています。
・そしてキリスト教で、「『正統』と呼ばれた人々はこれを積極的に肯定して、突発的で不可解で予測不能の発出をおこない、とびはねながらいやましに成長をとげていくようなこの霊の活動を、存在(ある)そのものである神の全体性のうちに、正確に位置づける努力をおこなった。ここから、キリスト教に独特な『三位一体』の考えがつくられてきた。」と結論づけています。
第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)感想
・キリスト教の「三位一体」が増殖を教理に包摂するための仕掛けであることを知りました。

第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)
・著者は、三位一体論によって、人聞ははじめて「資本」というものをあつかえる論理を開発したのであると論じています。
・タマやハウは、そもそものはじめから、「ある」に内在している資本の原理に触れようとしていたとして、次のように説明している。「じっさいハウは、マオリの人々にとって、『越える、越え出ている』『過多、必要とされる尺度を越えた部分、余分』としても理解されていた。タマ-モノについても、同じことが言える。古典や民俗のなかで、タマは多産性の原理のことをあらわしていたが、人類学者によって記録されたハウの現実的な用例に照らし合わせてみると、この多産性のもたらす『儲け』の部分が、のちに幸福をも意味するようになった『さち』に相当していることになるだろう。」
・一方、キリスト教の三位一体論では、深遠なる同一性の場所(御父)から、同質の「御子」が生まれたという信仰上の事実を、聖霊の働きを仲立ちとする、精妙な(パラドックス)論理によって説明することができたと解説しています。
・それは、「もちろん説明といっても、あふれかえる充溢力によって増殖的な働きをおこなう聖霊というものが、はじめから論理の構造のなかにセットされていることによって、恩寵や愛や至福といった信仰的な現実のしめす構造とパラレルな関係になっているだけのことであるから、けっして合理主義の思考者を満足させることなどはできない。その構造とそれを表現する論理とを受け入れることができるためには、信仰上の『回心』が必要である。しかし、ローマの現実の経済生活で日々おこっていた出来事は、三位一体の論理による現実の理解を要求するものである。商人的資本主義は、ものごとの頭部でおこる増殖作用を、日々体験していたのであるから。」と補足説明しています。
・また、「聖霊主義の流行は、あきらかに資本の発達と連動している。人々は、資本主義の精神の形成に聖霊の働きとの類縁性を感知していたのだ」とも述べています。
・著者はマルクスの引用なども行いながら、「内包空間のうちに充満し、増殖し、多様な発芽をおこなう聖霊的な力能は、本質的に『贈与の空間』に所属するものである。ところが、資本主義は人間にとってのいっさいの有用物を商品にしてしまう。そのとき、贈与の空間は瞬時にして消滅する。そして、力能も商品化されて労働力となる。その労働力を利用して、資本はみずからの『岬』において、価値増殖をおこなうのである。」としています。
・最後に、「森のハウは人々に富をもたらし、タマの活動の先端部(そこでタマは身体性の容器であるモノに変容をとげた)では『さち』があらわれた。ところが、資本の生み出す『幸福』とは、ハウやタマや聖霊の亡骸を堆積した、みかけの増殖のうえになりたった幻想なのである。そこには『さち』にはあったようなリアルは最早ない。キリスト教の三位一体論は、資本の出現を準備した。しかし、それが出現してしまったあとでは、古代的な豊穣さを抱えたまま、三位一体論そのものが沈黙のなかに没していくのである。」と結論付けています。
第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)感想
・三位一体論が古代的豊穣さであり、それが資本を扱える論理を開発し、資本出現の準備をした。そして、資本主義が生まれると贈与の空間は瞬時に消滅し、リアルな「さち」はなくなったという歴史認識をこの節で知りました。

第4節(モノとの同盟の必要性)
・この論文の結論が「モノとの同盟が必要だ。」です。
・その説明として「新しい同盟は、モノとの間に結ばれなければならない。非人格的な力能であり、結氷寸前の海水のように、物体性のモノや昔の人たちが霊力とも聖霊とも呼んだ非感覚的な内包力などが、混成系をなしながら、複雑な全体運動をおこなっている、そういうモノとの間に、人間は真実の同盟関係をつくりあげることが必要なのである。」と述べています。
・また、「人間がこの同盟者の姿を見失ってすでに久しい。その間に、モノは単なる物(オブジェ)となり、恩寵の増殖力にふくらんでいたその強度の場所は、数だけはおびただしいがすべてが影のような商品につくりかえられて、モノの『ふゆ』の過程は資本の増殖へと変貌してしまった。その結果、かつては人間の世界に豊かなふくらみをあたえていた贈与の原理は、世界の表面からは消えさり、かつて宗教と呼ばれたものの多くの部分が、資本の論理の別表現でしかないさまざまなカルトに頽落していってしまった。」と説明しています。
・また、「モノとの新しい同盟関係の創造が、いまこそ求められている。モノは理性(ことわり)の敵などではないし、ましてや精神に対立する物質性の体現者でもない。モノは瞑く暗い光の中から生まれて、ものごとに『ことわり』をもたらすアレーテイアの明るい光の世界に向かっていったかと思うと、腫を返して、ふたたび瞑い光の奥に引きこもっていこうとする。」とも説明しています。
・著者は、実はギリシア人にとってのピュシスが、はたしてほんとうにハイデッガーが描いたようなものだったかどうかはあやしいものだと疑問を投げかけています。モノと同じように、ピュシスもまた、瞑い光の領域の住人であり、最後までその性格は失われていなかったのではないだろうかと疑問を呈しています。
・「変わってしまったのはピュシスのほうではなく、人間のほうだったのではないか。」と疑問形ですが、著者の考えを述べています。
・著者は、この同盟関係の樹立にさいしては、「技術」というものが大きな意味を持つであろうと述べて、次のように解説しています。「私たちがここで見てきたように、タマとモノとの間に存在する微妙な差異には、内包空間の強度とそれに働く技術との繊細な関係が反映されている。モノはそれ自体が、すでにして道具であり、技術なのであり、そのモノを上手に利用して、人間は長いこと、瞑い光の充てる内在性の空間の冒険をおこない、伝統をつうじて、個人の内的体験を大きな公共的知識の集積体へと成長させてきたのである。」
・そして、次の例をあげています。「たとえば数万年におよぶシャーマニズムの探求は、より高度に洗練された瞑想の体系へと受けつがれて、今日におよんでいる。それは大脳と神経組織の内部でおこる量子論的な過程に踏み込んでいけるような、いくつもの特別な技術を開発してきたが、そのおかげで、人間は瞑い光というものがどのような力能を持ち、内在空間でどのような運動をくりひろげているのかを、つぶさに観察することができるようになった。」
・この論文の最後の文章は宗教の死について、次のように語っています。「宗教は、モノとの新しい同盟をつくりあげるさまざまな実践へと、解体吸収されていくのである。さまざまな実践、それは個人の探求であったり、協同の実践であったり、伝承文化運動の形をとったり、市民運動と呼ばれることもある。あらわれる形はさまざまだ。しかし、それらすべてがひとつの共通点を持つことになるだろう。それは非人格的なモノへの愛である。人間主義の狭量さを超えて、資本のメカニズムをも凌駕して、広々としたモノの領域へと踏み込んでいくのである。そのとき、宗教は死んでよみがえるだろう。宗教がみずからの死復活をおそれてはいない。だいいち、そのことを説いてきたのは、宗教自身だったのだから。」
第4節(モノとの同盟の必要性)感想
・モノとの同盟とは、一言でいえば、狩猟社会の思考法の復活であると理解しました。
・モノとの同盟では技術が大切であり、それはたとえば瞑想であり、それにより内在空間の運動をつぶさに観察できるとの記述については、その凄さを知識として、より具体的に知りたいと思います。
・狩猟社会の思考法、モノの思考法の有用性、必要性は肯定的な感想を持ちましたが、現実世界でこれらの思考法を復活させる糸口の活動についての情報はこの論文から得られませんでした。
・瞑想がモノの思考復活の糸口の一つかもしれませんが、知識がないので、分りません。
・現実世界で、狩猟社会の思考法復活をどのように行うのか、中沢新一のこの論文以降の著作や他の識者の著作を読んで参考にしたいと思います。
・この論文をきっかけにして折口信夫などの著作物にアクセスすることになりました。狩猟時代(縄文時代)の思考法について、今後幅広い学習を展開していけそうです。

中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 2


2 光の抗するモノ
第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)
・「モノ」は3つの仕方で「ある」の事態に関わっていると説明しています。(「ある=あらわれる」の全ての位相と過程にかかわる。)
・モノとは第1に、タマ=霊力の強度を包み込み収める容器のことを指し、象徴の形態面をあらわし、その内容がタマであるとしています。
・モノとは第2に、「内包空間で充実しきったタマの霊力を、外の世界に引き出したり、人体に付着させてその人の威力としたりするさいに、霊力の引き出しや付着を媒介する道具として用いられるもののことである。」としています。
・モノとは第3に、「ある」がはらんでいる否定性を受け入れるために用意された、記号的な容器としています。純粋肯定性であるタマが内包空間を出て外気に触れると、避けがたい衰え(ケ)が発生するとしています。それをモノが引き受ける(モノノケ)と説明しています。
・従って、日本語の「記憶」には物体性のモノの中に、存在の根源を表すモノの意味が刻み込まれていて、モノはハイディッガーのいう「存在」の事態へと深くかかわるとしています。
・次いで、古代ギリシャ語のピュシス1語が、自然物をも言い表せば、そうした自然物の全体が「ある」ものとして「立ち現われる」仕方そのものをも、言い表そうとしていると説明しています。
・フッサールが「現象」ということばでしめそうとした過程の全体を現すという意味で、モノとピュシスの共通性を説明しています。
・しかし、モノの「あらわれ」とピュシスの「立ち現われ」の内容には重大な異質性があること指摘しています。
・ピュシス的技術によって強いバイアスを受けた思考から、ヨーロッパの原理が生まれ、「世界のヨーロッパ化」が行われたと説明しています。
・それに対してモノ的「技術」は、こんにちのグローバル・スタンダードであるピュシス的「技術」がっくりだす世界とは、異質な世界をつくりだす能力をひめていると説明しています。
・そして、「モノとタマをめぐる日本語の思考には、ピュシスをめぐるギリシア的思考に優に匹敵する強靭さと立体性がそなわっているようであるので、そのままのかたちで、別に現代的な補強などを加えなくとも、モノはりっぱにピュシスをめぐるハイデツガーの思索などと、互角に渡りあうことも可能なのである。」と結論付けています。
第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)感想
・この節の説明で、存在にかかわる日本と西欧のコトバの類縁性と異質性の理解が進みました。
・モノの思考が、西欧のピュシス思考に互角に渡り合えるだけの強靭さ、立体性を備えているということの気づき(評価)が、著者に「新しい唯物論創造」とまで言わせた原動力になっている想像しました。

第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)
・色に喩えると、モノは雑色のまだら色、ピュシスは純粋な単光色と説明しています。
・ハイディッガーの著作を引用しながら、著者はピュシスを、閉ざされたり、覆い隠されたり、中に折り畳まれている状態から、覆いを取られ、聞かれた、平明な状態のうちに出てくるという意味での立ち現われること、と説明しています。
・また著者は、ピュシスはそれ自体が、「現象学」という近代の哲学のめざしたものそのものを、みごとに表現するものとなっているとして、そのことについて説明しています。
・現象学は、経験の本質を、光や「ことわり」の明るさのなかへの出来(しゅったい)としてとらえて、その経験の確実な基盤ないし起源を探し出そうとしてきたと説明しています。
・著者は次の文章でこの節を結論付けている。「ピュシス=西欧における『ある』をめぐる思考のいっさいが、ここから発生している。その本質は、自然のすべてを思考の対象の位置に還元して、理解と操作の対象としていこうとしている近代科学においでさえも、表面からは覆い隠されてしまっているが、瞑い起源の場所で活動をつづけている。現象学はそのような隠蔽された起源の場所を、ふたたび開かれた明るさのうちに持ち来たらそうとしてきたのだ。」
第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)感想
・ピュシスが根源語となり、「ある」の西欧的思考が生まれた。そして、ハイディッガーを経て現在「現象学」がこのピュシスの解釈により「隠蔽された起源の場所を、ふたたび開かれた明るさのうちに持ち来たらそうと」しているという西欧哲学の動きを理解しました。

第3節(モノとピュシスの違い)
・著者はピュシスについて次のように説明しています。「ピュシスが瞑さの中から明るさ(開かれ)のうちに『立ち現われ』てくるのは、みずからのうちに光を内蔵していたからである。この光は打ち開かれた状態を自分の本性としていて、そういうみずからの本性を実現するために、覆い隠していたものを破って、広がりのなかに自分を放っていくのである。」
・一方、モノについて、ピュシスとの対比として次のように説明しています。「モノの場合は違う。タマが自分を覆い隠す『かひ』の内部で成長をとげるのは、植物の根が土中で増えていくように、自分を分裂させることによって、みずからにみなぎる強度の膨張に耐えるためなのだ。モノには隠されたもの、隠匿されたものなどはない。内包空間での強度の膨張(なぜそれがおこるのかは、思考されない。おそらくはそれは思考の外部として、内包性としてすら思考しえないものであると考えられたからではないだろうか)によって、タマは分裂を重ね、おびただしい増殖をとげていく。そして、とうとう内包空間での緊張に耐え得なくなった『タマ』強度が、『かひ』を破って、外気のなかに『あらはれる』。その瞬間にタマの組成には根本的な変容がおこって、存在の卵の中から雛鳥が出てくる。しかし、この存在の雛鳥が光ではないことに注意しよう。自分を不透明にする皮膚と外気の中での生活に耐えるための体毛に覆われて、光でもなく闇でもなく、まさに光と瞑さの雑色の混成系として、ひとつの『ある』が出現する。厳密な意味でいえば、これは『光の哲学』である現象学のとらえようとしてきた『ある』のはじまりではない。」
・ユダヤ教の光の意味の言葉も日本語のモノとつながっていると述べている。
・最後に、モノに触れて、「ピュシス的な思考圏に生まれた現象学は、エロティック化の変容をこうむることになるだろう。」と述べている。また「そうなったときに、ピュシスの思考に深くつながれた西欧の技術をめぐる思考には、はたしてどのような変容が生ずることになるだろうか。モノとタマが呼吸している陰翳にみちた瞑い光が、どのような技術の思考を生み出すだろうかという、まだ誰によっても答えられたことのない問である。」と結んでいる。
第3節(モノとピュシスの違い)感想
・モノとピュシスの思考の相違について、一応理解できました。
・西欧の哲学としての現象学がモノから受ける影響によって変容をこうむることになり、西欧の技術をめぐる思考がどうなるか、ということと、モノがどのような技術の思考を生み出すか、誰によっても答えられたことがないと著者は言っています。つまり、著者が始めて、こうした問を発したということだと思います。

第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)
・著者はレヴィナスの「現象学のエロティック化」を紹介し、私たちは『技術論のエロティック化』を目指し、それが今日の必需品だとしています。
・また、ハイディッガーの「技術論」における反省(西欧的・ヨーロッパ的思惟が従来「存在」という名の下に描き立てねばならなかったものの本来の特質が、どこに潜み、どこに自らを隠蔽しているかを、反省すること)を紹介しています。
・そして、その反省を西欧的思惟とは異なるモノをめぐる思考を足がかりに行うとしています。
・反省の最良の材料は、「もしも技術にかかわることの本質がアレーテイア的非隠匿性とそこから派生する「立て上げ」「挑発する」近代技術というものとは違うふうに思考されるのだとしたら、それがいったいどんな形態をとることになるかを探ること」だとしています。
・最後に「モノをめぐる思考はしかも民族的な文化の境界をこえて、多くの文化の中で類似の深化と発達をとげてきた。その意味では、いまも惑星的規模のスタンダードとなった西欧的なアレーテイアの磁場におかれた存在思考よりも、モノ的な存在思考のほうがはるかに普遍性をもった思考法なのである。そこから「陰翳の技術」とでも呼ぶべき、エロティックな別の種類の技術の原理を引き出してくることが可能である。」と述べています。
第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)感想
・モノをめぐる思考により新しい種類の技術原理をつくることが可能であるとし、それの参考として、「技術論のエロティック化」「陰翳の技術」などのキーワードが登場します。
・今の自分の知識量では残念ながら「技術論のエロティック化」「陰翳の技術」で著者が言わんとするイメージが半分程霧の中です。ですから、「モノをめぐる思考により新しい種類の技術原理をつくることが可能」と著者が言っていても、それが本当に可能であるのか、自分では判断(イメージ)できません。
・自分にとって、レヴィナスの著書や現象学について理解する必要があります。
(つづく)

中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 1


 中沢新一「緑の資本論」の付録論文「モノとの同盟」をパラパラめくっているうちに、ついつい引き込まれてしました。予定外でしたが、短い論文でしたので、一気に読みきりました。
いろいろな感想を持ちましたので、メモを残しました。

●中沢新一「モノとの同盟」の目次 (節区分は著者による、節見出しは学習者による)
1モノへ向かって
 第1節(導入)
 第2節(上代日本語のモノの意味)
 第3節(モノの技芸の実際)
 第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)
2光に抗するモノ
 第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)
 第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)
 第3節(モノとピュシスの違い)
 第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)
3モノとの同盟
 第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)
 第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)
 第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)
 第4節(モノとの同盟の必要性)


1 モノへ向かって
第1節(導入)
・現代日本語の「もの【物】」の国語辞典における意味の深さを最初に紹介しています。
・次いで、現代の、生命を非人格的なモノとして取り扱う技術が、幸福とともに災禍をももたらしかねないと警鐘を発し、その理由として、生命が操作可能な外延的対象としてのモノにとどまらず、「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象」などの内包的なモノにも深くかかわっていることを述べています。
・この例から、「モノを単なる物体である状態から解放していかなければならない。」と述べています。
・そして、「クルミの殻のように固いモノ概念の内部に、複雑な構造と運動を発見していかなければならない。こんにちもっとも必要とされているもの、それはモノをめぐる新しい思考を創造することだ。これを新しい唯物論の創造と呼んでも、的ははずれてはいない。」と結んでいます。
第1節(導入)についての感想
・この論文では「モノ」と書いて読み手の意識集中を促していますが、「モノ」は「もの【物】」であると理解します。
・モノを外延的対象としてのみ扱う昨今の風潮に警鐘を鳴らし、モノ概念の中に内包的な意味を考えることによって、モノをめぐる新しい思考創造を中沢新一は目指していると理解しました。
・モノの内包的意味の例として「モノノケ」や「モノに憑かれる」のモノが紹介されていることから、「内包的」の意味は「人の心内部の現象にかかわる」という意味であることを理解しました。

第2節(上代日本語のモノの意味)
・著者は物部氏の名前のモノの意味を宇仁新次郎氏の引用文で説明し、仏教以前の古い形態の鎮魂法とそこから派生する裁判や軍事の技にもかかわり、大きな影響力をもったと考えています。つまり、物部氏は文字通りモノを取り扱う豪族で、土地の精霊の威力を道具によって捕獲・掌握して管理し、裁判や軍事の技に大きな影響力を持ち、天皇に仕えていたと説明しています。
・しかし、厩戸皇子や蘇我馬子などは、土地の精霊を直接的に象徴的な道具によって掌握する伝統的な技芸とそこから派生する権力をあえて否定して、外来の普遍レベルに立つ仏教を受け入れようとしたとしています。
・ここにはげしい抗争が発生し、武力が動員されて、物部守屋は蘇我馬子を中心とする豪族連合によって減ぼされたとしています。モノの技芸の敗北とともに、法(律令)の整備が始まると説明しています。
第2節(上代日本語のモノの意味)の感想
・物部氏のモノの技芸が敗北して、律令社会がスタートしたということが、上代日本におけるモノの技芸の没落を意味していると、よく理解できます。

第3節(モノの技芸の実際)
・筆者は、物部氏が管理していたモノの技芸について説明しています。十種の神宝(鏡や剣や特殊な布や玉)を使って、「死せる者も生き返る」ような力を発揮させ、その力は非感覚的で内包性の力であるから、これを霊力ともタマともよぶことができるだろうとしています。それは、いわゆるタマフリ、鎮魂の方法であるとしています。
・折口信夫の「霊魂の話し」を引用してタマ(「たまご」や「かひ」の内部で成長をとげる)、「ある(存在)」(殻を破ってこの世界にあらわれる)、モノ(物体性をそなえる。道具性を関係を持つ。)などの関係を説明しています。
・モノとモノイミの内面的なつながりについても論じています。
・モノということばは、内包量であるタマが外延的な世界の「外気」に触れる瞬間に発生する本質をとらえようとしていると説明している。
・ことばのひだは複雑に折り込まれ、タマフリに用いられる鏡や剣や玉そのものが、モノと呼ばれる。
第3節(モノの技芸の実際)の感想
・知識として、十種の神宝や鎮魂、タマフリなどについてこれから学ぶこととします。その知識がないとモノの技芸の真の意味がわかりません。WEBで調べると、「神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが『たましずめ』である。『たまふり』は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。」(ウィキペディア「鎮魂」)と出ており、死者の霊を鎮めるという意味よりはるかに広大な意味を有しているようです。折口信夫の「まれびと」論が参考になるとも書いてあります。
・折口信夫の「鎮魂の話」は必読であると感じました。岩井國臣「ジオパークについて」→中沢新一「モノとの同盟」→折口信夫「鎮魂の話」と引用されている知識をより深く理解しようする旅が発生しています。読みたい本が幾何級数的に増大するので、限られた時間の有効活用法がテーマになりそうです。

第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)
・物部氏は豪族の神宝=モノ(大地と結びついたタマ=霊力が込められている)を大地と切り離して大和で集中管理して、天皇に豪族を服属させたことが説明されています。
・その時代の権力は内包から外延にいたる横断的な性格をもっており、その横断能力が技芸とか芸能とか技術とか言われたと説明しています。
・物部氏没落以後の鎮魂技芸の拡散伝承例として、物部氏に繋がる他地方の神社、大本教、修験道、四国山中の「いざなぎ流」、奥三河から信州・遠州の境にかけての「花祭り」が紹介されています。
・生命現象がゲノムのような物質的過程に還元され、技術によって操作され、商品化される現代にあって、民俗学はそのような還元や操作を受けつけないモノの活動の領域がたしかに存在して、いまも活動を続けていることをあきらかにしようとするのであると述べています。
第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)の感想
・内包から外延にいたる横断的な能力による権力とは、魔術師(人の操作ができる祈祷師)が首領で軍や警察、行政機関を自由に動員できる状態ということと理解します。人集団の心理を操作して行動に動員できる能力を警察や軍事、生産に活用して社会が動いたと理解します。
・物部氏の鎮魂技法の伝承を知り(民俗学)、そこが生命現象を物質的に還元し操作することを受け付けない領域であるとしていることは、よく理解できます。
・著者は「民俗学的なモノの深みへと降り立っていく実践」のことを「新しい唯物論の創造」と呼んでいます。これからの活動イメージの旗を立てたというふうに理解します。
・新しい唯物論の有用性・可能性が、以下の章でどのように明らかになるのか楽しみにして、読書を続けます。
(つづく)

2011年5月27日金曜日

中沢新一著「緑の資本論」紹介

中沢新一著「緑の資本論」(集英社、2002)

 テキスト「ジオパークについて」の「7森岡正博の『生命の哲学』」の後半で、贈与に関連してタマとモノの説明、あるいは「“ある”の哲学」が触れられています。
 またテキスト著者の主著である「劇場国家にっぽん」では「モノとの同盟」が主要なキーワードになっています。「モノとの同盟」の文脈の中で贈与空間の復活を論じています。
 しかし、「タマとモノ」、「モノとの同盟」について言葉面以上に理解が深まらないので、思い切って中沢新一「緑の資本論」収録論文である「モノとの同盟」と、併載されている論文を読むことにしました。
 ここでは「緑の資本論」の紹介をします。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:緑の資本論
発行:集英社
発行年月日:2002年5月10日
体裁:単行本(18.8×13.8×2.4cm)204ページ
ISBN-13:978-4087745764

2 目次
序文
圧倒的な非対称
緑の資本論
シュトックハウゼン事件
appendix モノとの同盟

3 「序文」抜粋
「九月十一日のあの夜、砂の城のように崩れ落ちていく高層タワービルの映像を見ているとき、そこに同時に、透明で巨大な鏡が立ち上がるのを、たしかに見たのだった。その鏡は無慈悲なほどの正確さで、私たちの生きている世界の姿を映し出していた。なんの歪みもなく、なんの曇りもなく、なんの希望も、そしてなんの絶望もなく、鏡は静かに、幻想の雲でできた世界の姿を、くっきりと浮かび上がらせてみせた。
その鏡の出現を見てしまってからは、思考の回転はもはやもとのままでいるわけにはいかなくなった。いままでの体制は総崩れ、これからはなにもかもがむきだしのリアルワールドで、思考されなければならない。なにかが口火を切ってしまったのだ。私はもう思考の主人ではいられなくなった。私が思考するのではなく、思考のほうが私を駆り立てて、ことばに向かわせるのである。こうして驚くほどの短期間に、三編の文章が書き上げられることになった。
『圧倒的な非対称』では、思考は一人のルソーとなって、国家の野蛮を告発しようとしている。
(中略)
イスラームに対する偏見や無知への憤りが、『緑の資本論』を書いている。
(中略)
『シュトックハウゼン事件』は、私自身の個人的体験に深い関わりをもっている。
(中略)
『モノとの同盟」という文章だけが、九月十一日以前の、比較的のどかな時間の中で書かれている。これをAppendixとしてこの本に収録したのは、生命過程と魔術の原理の間に共通する増殖性の問題が、貨幣の世界に移し替えられると、商品交換の先端部分で発生する資本の増殖作用に姿を変えていくありさまが、そこにはスケッチされているからで、『緑の資本論』の補強道具となることが期待されたわけである。 2002年3月8日」

4 私のメモ
 この本では付録ですが、岩井先生の著書では「モノとの同盟」が重要なキーワードになっているので、まず「モノとの同盟」について読んでみたいと思います。
 2001年9月11日の出来事に会い、思考が中沢新一を駆り立てたということです。その内容をこの本から理解したいと思います。同時に、2011年3月11日の出来事に会い、思考が中沢新一を駆り立てているに違いないと想像します。その内容もいつか知りたいところです。そして9月11日の時と比較してみたいと思います。