2011年6月24日金曜日

中沢新一「モノとの同盟」に関してもやもやすること 2


 岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習をはじめて、その学習の一環として「モノとの同盟」に興味が集中しました。中沢新一と折口信夫も少しだけかじってみました。
 そして次のような疑問が浮かび前回記事でメモしました。
1 中沢新一「モノとの同盟」の提案原理はどこのあるのか
2 現代文明の危機意識
3 情報社会のあり方

 そして、何気なく「仏教が好き!」(河合隼雄・中沢新一、朝日新聞社)を読んでいると、次のような話が出ていて、私の上記疑問にまとわりついてきます。

河合―非常に困ったことは、いま世界を席捲している科学技術はキリスト教から出てきている。キリスト教がなかったら生まれてこないと思う。ここをどのように考えるかという非常にむずかしい問題が僕はあるように思うんです。(中略)
ところが、『華厳経』を読んでいたら、科学技術も全部入るんじゃないかという気もしてくる。また片一方から言うと、宗教と科学の問題をいちばん解決する力を持っている宗教が仏教ではないか、という考え方もだんだんしてきたわけです。それも考えてみたいという気があるんですね。

中沢―まったく同感ですね。たぶん「仏教とは何か」ということがそこに関わってくるのでしょう。科学と宗教を媒介する場所に立てるのが仏教だと思います。それができるんですよ。なぜそれが仏教にできるかというと、仏教は「野生の思考」から発達した思想として、一面で科学なのですね。「野生の思考」と科学というのは、本質的には対立しないのだと思います。それどころか科学がやってきたことをすべて準備したのは、実際に「野生の思考」にほかなりません。新石器時代人がフリント(火打ち石)を加工しているときにおこなっていた思考は、現代の科学者が研究室で最新の実験器具を使いながら働かせている思考と、まったく同じ能力を使っています。考古学があきらかにしているように、この三万年ほど、人間の大脳の構造は変化していません。ところが、西欧の現代(近代)科学だけは異常な発達をするわけでしょう。そうすると、人間が本来持っている科学や技術の能力というものと、現代科学として異常発達しているものの間には、何か別の要素が加わっているのではないでしょうか。この別の要素というのがギリシャとキリスト教とに関わっているのだと思います。科学技術そのものは、ギリシャ=キリスト教的な何かの要素が加わらないかぎりは、現代科学のような形で急速な発展を遂げなかったと思います。」

 仏教自体のことは(興味が湧きますがとりあえず)さておき、現代科学技術の問題を解決するための道筋を、中沢新一が考えていることをこの文章から十分に察知しました。

 次に(どうしてそうなったのか自分でもわかりませんが)、衝動的に手許の「熊から王へ」(中沢新一、講談社)の「はじめに」の部分を読んでみました。要旨次のようなことが書いてあります。

……………………………………………………………………
熊から王へ(中沢新一、講談社選書メチエ)
はじめに カイエ・ソバージュ(Cahier Sauvage)について

第一次「形而上学革命」
一神教の成立(新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立)
(「野生の思考」と呼ばれる思考能力を抑圧した。)
宗教は科学を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。

第二次「形而上学革命」
科学革命
「野生の思考」と呼ばれる思考能力が装いも根拠も新たに「科学」として復活を遂げる。
宗教を否定して、科学は地上のヘゲモニーを獲得した。

第三次「形而上革命」の見通し
「それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件(生命科学の機械論的凡庸さ、分子生物学と熱力学の結合の不十分さ、量子力学的世界観の生活と思考の全領野への拡がりを阻んでいる西欧型資本主義の影響力など)を否定して、一神教の聞いた地平を科学的思考によって変革することによってもたらされるであろう。」
……………………………………………………………………

 この文章から、中沢新一は、ギリシャ=キリスト教でバイアスがかかり急発展した科学技術を、人類が既に持っている別の思考方法で変革する社会必然について考えていることを知りました。

 古代社会においてすでに人類が開発した思考方法(「モノとの同盟」、「対称性思考」などのキーワードに関連する思考方法)が、現代において提案される原理が直感でき、それについてさらに学習を深めたくなりました。

 早速次のカイエ・ソバージュ選書等の入手を手配しました。
「人類最古の哲学」、「愛と経済のロゴス」、「神の発明」、「対称性人類学」(以上中沢新一)、「野生の思考」(クロード・レヴィ・ストロース)

「1 中沢新一『モノとの同盟』の提案原理はどこのあるのか」という疑問は、上記書籍等を学習することで解決できる見通しとなりました。

 中沢新一の発想・知識の雄大さに感動し興味を深めています。また、それをテキスト「ジオパークについて」や「劇場国家にっぽん」で紹介していただいた岩井國臣先生に感謝します。

2011年6月19日日曜日

中沢新一「モノとの同盟」に関してもやもやすること


 岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習をはじめて、その学習の一環として「モノとの同盟」に興味が集中しました。中沢新一と折口信夫も少しだけかじってみました。

 そこに書かれている内容は私の知識欲を満たしてくれるものであります。古代人の思考様式とそれに関連する諸知識は私の他の活動(地域の歴史や特徴の把握)にも大いに役立つものです。

 一方、次のような問題意識がだんだんと大きくなっています。もやもやしていて明解な考えにいつまでもならないので、とりあえず、そのままメモして記録しておくことにします。

1 中沢新一「モノとの同盟」の提案原理はどこにあるのか
 中沢新一「モノとの同盟」では、事例として、現代社会における「生命現象の物質還元」や「資本主義が贈与の空間を消滅させ、自ら価値増殖をおこなう」点などを挙げて、現代文明の危険を察知し、その回避の哲学として「モノとの同盟」(狩猟社会の思考の復活)を提起しています。

 狩猟社会の思考が現代文明の危険の素をつくった思考と異なることはよくわかります。
狩猟社会の思考が現代から見ると自然と調和した思考であり、自然に対して「信」や「礼」のあるものであることもよくわかります。
その思考で世界をつくることができればとても魅力的です。

 しかし、だからといって、狩猟社会の思考方法の復活を現代社会に無条件に復活適用させるという発想はありえません。狩猟社会の思考は役割を終えて、その後の農業社会、工業社会、情報社会の思考に取って代わられてきているわけです。既に一度陳腐化して社会の最前線から退いた思考です。その思考の復活適用に当たって、なんらかの原理的説明が必須です。情報社会のあり方の中でその提案が説明される必要があると思います。

2 現代文明の危機意識
 現代文明に対する現状認識(危機意識)の深さによって「モノとの同盟」の理解が異なることは想像できることです。

 現代文明にさしたる危機を感じなければ、魔術世界の思考復活などありえません。
 迫り来る地球規模での飢餓を想定するような文明危機意識があれば、狩猟社会の思考を取り入れた新しい人類の哲学が必要になるかもしれません。

 東日本大震災を契機にして、震災だけでなく、地球規模での文明的危険についても考える必要があります。

3 情報社会のあり方
 2と関連しますが、工業技術に替わって情報技術が人類社会全体を変革しつつある現在、その人類社会変革に必要な新しい哲学が求められているのだと思います。その新しい哲学がどのようなものであるか。情報社会が必要とする新しい哲学の中で「モノとの同盟」がどのような座席を得るのか、興味があります。

2011年6月12日日曜日

折口信夫「霊魂の話」を読んで

            折口信夫全集第三巻古代研究(民俗学篇2) 中公文庫版

 折口信夫全集第三巻古代研究(民俗学篇2)の中公文庫版古本をWEB購入し、「霊魂の話」を読みました。自分自身の過去の行動特性を踏まえると、折口信夫全集を手元に揃えるのは時間の問題であると感じましたので、とりあえずの読書のために、WEBで最安値本を入手しました。

 読書後「青空文庫」(著作権切れ著作物の公開サイト)にこの「霊魂の話」が掲載されていることを知りました。この論文だけを読みたい方はWEBで全文テキスト入手あるいは画面表示による閲覧読書が可能です。

1 この論文の特徴
初出情報として、郷土研究会講演、昭和4年9月「民俗学」第1巻第3号と出ています。
文庫本17ページの小論文が15節に分れ、それぞれに小見出しがついています。論文全体が俯瞰でき、また節の読みきりがしやすいです。82年前の論文とはとても思えない簡明性があります。理解しやすい論文です。

2 中沢新一の引用の的確性のチェック
この論文を読んだ理由は次の2点あります。

ア 地域づくりの哲学的基礎に関する興味を深める(興味を満たす)ためです。岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」→岩井國臣著「劇場国家にっぽん」→中沢新一「モノとの同盟」→折口信夫「霊魂の話」と読書が続いています。

イ 中沢新一の引用を確認し、その的確性をチェックすることです。学者の著作物を素人がチェックするという表現はすこしおこがましいですが、最初の読書では必要だと思いました。

以上の読書理由のうち、イのチェックという面でいうと、折口信夫が話している内容を中沢新一は間違いなく伝えていることを確認しました。

同時に、折口信夫の話している内容に中沢新一が新しい生命を与えていると強く感じました。折口信夫の著作を生き返らせているという印象を受けました。チェック的意識も持って「霊魂の話」を読んでよかったです。

 折口信夫の古代に深く掘り込んでいく探求の成果を、中沢新一は現代世界の根本問題解決のヒントとして利用しようとしています。未来を志向しています。岩井國臣先生は現実社会問題解決のための哲学(地域づくりの哲学)形成をめざし、その柱の一つとして中沢新一のヒントを活用しています。

3 興味を深めた点
 たまの分化、発生の3段の順序が日本人の思考を理解する上で大切であり、その理解が必須であったことに、ようやく気がついたという印象をもちました。
それを理解することにより、「ものいみ」「石に関する民話」「漂着石や漂着神」「石こづみや古墳」「山伏など山岳信仰」の理解が進みました。知識の幅を広げることができたと実感できました。

 次にこの論文のメモをフリーマインド(フリーソフト)でまとめました。

            折口信夫「霊魂の話」のメモ

2011年6月5日日曜日

小泉保著「縄文語の発見」読後の感想


1人類学と考古学の進展を踏まえている
 小泉保は「縄文語の発見」の前書きの中で、人類学と考古学の進展を踏まえて縄文時代の言語を特徴付けることが国語学、言語学の責務であると論じ、実際にこの書の第1章縄文文化と第2章縄文人はそれぞれ考古学と人類学の最新成果のサマリーとなっています。それを踏まえて、第3章以下の言語学的考察が行われています。第1章縄文文化、第2章縄文人は文章も分りやすく、私にとって縄文の基礎知識を体系的に知る機会ともなりました。

2日本語起源論の学説を体系的に紹介している
 日本語起源論の学説を体系的批判的に紹介して、それぞれの問題点を明らかにしているので、著者の論じる縄文語起源、縄文語から現代語までの遷移過程が客観的に理解できるようになっています。
 日本語起源の学説は次の3つの型に分けて説明しています。
(1)同祖論(琉球、朝鮮、モンゴル、ツングース、アルタイ、南島諸島、タミル、チベット・ビルマ)
(2)重層論(南方語の上に北方語、北方語の上に南方語、多重説〔古極東アジア語、インドネシア系言語、カンボジア系言語、ビルマ系江南語、中国語〕)
(3)国内形成論(北九州に発生した邪馬台国の言語→東進→畿内方言を征服、日本祖語となる)

3縄文語を比較言語学手法により探し出している
 縄文語を比較言語学手法をツールにして、柳田國男の方言周圏論を参考に探し出しています。
専門的には、弥生語の特色である方言分布、アクセントの発生、特殊仮名遣いの成立、連濁現象、四つ仮名の問題などを探し出した縄文語から解き明かすことによって、縄文語の正しさを証明しています。

4縄文語の成立
 著者は縄文語の成立に関して次のように述べています。
「ただ一つ確実ではないかと考えられることは一万二千年前の氷河期が終わった時点で、人類学者が言うように、南方のスンダランドに住んでいた原アジア人が北上してきて日本列島へ移住したという仮説が正しければ、スンダランドで交流していた南方系民族の言語要素が持ちこまれたことは不思議ではない。この観点から、大野氏の主張するタミル語との類似性や安本氏が算定したビルマ系、カンボジア系、インドネシア系の語彙それに村山氏、川本氏、崎山氏らが主張するオーストロネシア系の単語と日本語との近似性を否定することはできない。また、弥生期に入り二千年前に北九州方面に来入した渡来人により中国語的語彙が日本語に注入されたこともうなずける。
なお、スンダランドから日本列島へ渡ってきた諸種の言語を話す部族の中にアイヌ人も混じっていたと考えられる。ここにアイヌ人の南方起源説の根拠がある。アイヌ人は列島を北上し北海道の一隅で他の部族とは隔離した状態で生活をつづけてきたのではないだろうか。そして、いくつかの他の不明な異種言語は、互いに競合する内に傑出してきた原縄文語に吸収融和してしまったのではないだろか。」

5縄文語から現代日本語にいたる遷移
 著者は次の文章に示される考えに基づいて、縄文語から現代日本語にいたる言葉の遷移を体系だって説明しています。
「とにかく、弥生時代に弥生語なるものがすベての縄文諸語を一掃しこれと入れ替わったと憶測する必要はない。現在われわれが話している方言を逆に手繰っていけば、縄文基語に達するであろう。弥生語も縄文語の一変種にすぎない。ただ政治的中枢を握った人たちの言語として文化的に優位に立ち、他の方言に強い影響力を及ぼしてきたことは認めなければならない。要するに、日本語は縄文文化と共に始まったと考えてよいと思う。そして一万年にわたる伝統をもっていることになろう。これは島国という立地条件に負うところが大きい。」


            縄文語から現代日本語にいたる遷移
 著者はこの図を次のように説明しています。
「図面の中の点線は影響力を示している。日本列島では太古の昔、前期九州縄文語から表日本縄文語と裏日本縄文語が分派し、さらに琉球縄文語が分離したと考えられる。やがて表日本縄文語の子孫が山陽・東海方言となり、裏日本縄文語の方は末裔の東北方言とつながっている。また、前期九州縄文語から別れた琉球縄文語から琉球諸方言が生み出されるに至った。紀元前後には、前期九州縄文語を受け継いだ後期九州縄文語と裏日本縄文語に渡来語が作用して弥生語が形成された。この弥生語の直流の資格をもつのが関西方言である。他方、裏日本縄文語に表日本縄文語が働きかけて関東方言が作り上げられたようである。以上が縄文期から現代に及ぶ日本語成育の足取りであると推考する。」

            後期縄文語方言地図(推定)

6感想
 この書には沢山の言葉の起源検討事例が出てくるのですが、残念ながら「もの」についての事例はありませんでした。しかし、狩猟社会(縄文時代)の言葉が渡来語の影響を受けたにしろ、基本的にそのまま現代日本語に繋がっていることがこの本で分りました。そのことから、私が、岩井國臣→中沢新一→折口信夫と原典を遡り興味を深めている「もの」ということばも縄文時代には使われており、だから狩猟社会の思考方法がその言葉に浸み込んでいると素直に理解できます。

2011年6月3日金曜日

小泉保著「縄文語の発見」紹介

            小泉保著「縄文語の発見」(青土社、1998)

 中沢新一「モノとの同盟」に強い衝撃を受けています。「もの【物】」という日本語に狩猟社会の思考方法が埋め込まれているという指摘に心がざわめきました。その思考方法がこれからの世界に必要不可欠かもしれないという問題提起として受け止めました。「モノとの同盟」の具体化、方法、展開の話しはほとんど無いけれど、それは人類史的な意義のある大転換であるがためであり、安直には話せないものだからであると理解しました。
 この知的衝撃を受けて、早速折口信夫全集第3巻「古代研究 民俗篇2」を入手しました。読書チャレンジして、ものについての学習をさらに深めたいと思っています。大護八郎「石上信仰」、石上堅「石の伝説」、小林達雄「縄文の思考」、小林達雄「縄文人の世界」などの読書と合わせて古代の思考に対する興味が高まります。

 一方、私は趣味で千葉県北西部の小河川花見川流域を散歩し、気がついたことをブログ「花見川流域を歩く」で情報発信しています。この中で、河川名「花見川」や地名「花島」、「猪の鼻」、「花輪」など「ハナ」名称に興味をもち、柳田國男の説を援用して「ハナ」が縄文時代起源の「台地の突端」の意味の言葉であるだろうなどと議論しています。

 以上二つの取組から、言葉の意味、内容だけでなく、日本語という言葉そのものの起源にも興味を持ちました。
 「もの【物】」、「はな【端、鼻】」という言葉が縄文人に使われていたのか(縄文語彙であったのか)、言語学的に裏を取りたくなりました。

 そのような観点で小泉保「縄文語の発見」を読んでみました。
 ここでは、本そのものを紹介します。

1 諸元
著者:小泉保
書名:縄文語の発見
発行:青土社
発行年月日:1998年6月15日
体裁(19×13.8×2.4cm)279ページ
ISBN-13:978-4791756315

2 目次
まえがき
第1章 縄文文化---考古学の立場から
第2章 縄文人---人類学の立場から
第3章 日本語系統論
第4章 縄文語の復元
第5章 弥生語の成立
第6章 縄文語の形成
参考文献
あとがき

3 「まえがき」全文
「われわれが家系を尋ねるときには、父、祖父、曾祖父という順に過去へと溯っていくのが常道である。しかるに、日本語史や系統論では、なぜか祖父の時代から日本家が始まり、曾祖父は血のつながらない異質不明の人物と思いこんできた。ここで言う祖父は弥生時代の言語を、曾祖父は縄文時代の言語を意味している。つまり、弥生期の言語と縄文期の言語の間に血脈の断絶があったと決めてかかっていた。そうした確証はなにもないのに、断絶の憶説にいまも研究者は縛られているのである。
 そのため、系統論はいきなり日本語の祖先を特定しようとして、日本の北方に南方に親類縁者を探し求めてきたが、結局それらしい相手を見つけることができなかった。言語の血縁関係を認定するのには「規則的音声対応」という判定法がある。この方法により身元の証明ができたのは琉球語のみである。琉球語は間違いなく日本語の分家である。その他の類縁性が想定されている言語については、類似していると思われる語彙や文法特徴をいかほど数えあげてその親族関係を主張し合っても、規則的音声対応が取り出せないかぎり、水掛け論に終始することになるであろう。
 日本語の経歴を探究するに当たって、まず曾祖父の言語すなわち縄文時代の言語の解明が大前提をなすと筆者は考えている。弥生(時代の言)語が縄文(時代の言)語を駆逐して、それに入れ替わったとする証拠は何もない。日本語の方言分布を念入りに調べていけば、必ずや縄文語の様相をとらえることができるであろう。たとえば、出雲の方言がなぜ東北弁と同質であるかという問題に納得のいく解説を施すためには、縄文時代の言語情勢を推定し、そこから説き起こす必要がある。
 弥生語の一代前の縄文語は、弥生語の特色を説明できるものでなければならないと思う。その特色とは、専門的に言えば方言分布、アクセントの発生、特殊仮名遣いの成立、連濁現象、四つ仮名の問題などである。こうした問題を解く鍵が縄文語の中に隠されているに相違ないであろう。いままで、これら課題の究明は決して十分であったとはいえない。こうした音声的諸事項の因子をはぐくんだ縄文語の実体を明らかにするのが本書の目的である。
それに戦前戦後をとおして人類学と考古学は驚くべき進展をとげ、一万年に及ぶ縄文時代の輪郭を掘り出してくれている。これに応えて、縄文時代の言語を特徴づけることが国語学、言語学の責務であると考える。
 そのためには、日本語の方言形に比較言語学の手法を適用して、その祖形を求めるとともに、方言の分布について地域言語学的考察を加えて、まず縄文晩期の日本語の姿を再構したいと思っている。
 また、縄文語の解明は考古学と人類学の実績に裏づけされたものでなければならない。これを無視していきなり日本語の元祖の身元を割り出そうとすると、牽強附会にみちた空理空論になるおそれがある。
 さらに、日本語の歴史は、縄文語を後期、中期、前期と順次溯ることにより体系づけられるものと信じている。それには、考古学と人類学の縄文時代に関する予備知識が必要となるので、その概略を述べてから、先賢たちの日本語の系統論を紹介し、その後で縄文語へとアプローチすることにしよう。
 小泉保」

4 私のメモ
 考古学と人類学の成果を紹介してから、過去の日本語系統論を体系的かつ批判的に紹介し、最後に著者自身の縄文語へのアプローチについて述べていますので、大変分りやすい構成の本となっています。日本語起源について大変説得力のある論理展開がされている本だと思います。