2013年6月18日火曜日

鏡味完二の「船越」≠曳舟説の感想

地名「船越」に関する鏡味完二の語源説 3

1 「船越」を「舟利用における引っ越し」と考える
鏡味完二の「船越」≠曳舟説という結果を、自分としては受けとることにします。

曳舟があったからそれが語源で「船越」という地名が生まれたと考えることには無理があると思います。

ただし、古語「船越」は風景的に船形地形の峠を意味するという鏡味完二の説に、100%は納得できません。

船形の峠地形を指すことが原義なら、もっと沢山の「船越」名が山間部を含めてあるはずです。多数の峠地形が船形とみなすことが出来ると思いますが「船越」名は稀です。

また、船形地形に由来するならば、「フナコエ」となってよさそうですが、問題の地名はほとんど「フナコシ」で動詞的な印象を受けます。

「船越」は曳舟を直接意味しないが、舟利用と峠との関係の中で生まれた言葉であると考えた方が合理的であるように感じます。

例えば、「船越」を「舟利用における引っ越し」と考えると、海岸や平野部の「船越」名のほとんどについて説明できると思います。

つまり舟を利用しているなかで、乗越えたい障害物(海岸の陸繋、地峡、平野の急流部、川を遮る峠等)のある場所で、一旦舟を降りて荷物と人が陸行し、再び別の舟に乗る行為(舟の引っ越し)を「船越」と考えることもできるのではないかと想像します。

曳舟ではなく、舟から降りて陸行し、再び別の舟に乗ることを「船越」と呼ぶならば、たとえ標高が高い峠をそう呼んでも、不思議ではありません。

また、荷物と人が陸行して別の舟に乗るだけではなく、乗ってきた舟も曳舟で陸行させる場所も多々あったと思います。

2 横須賀の船越の例
鏡味完二は横須賀市の「船越」地名について、「曳舟など全然考えられない地形であり、これも恐らくその背後の峠のスカイラインの形態からくる船越地名であろう。」としています。

私は、この「船越」が東京湾と相模湾を隔てる狭い地峡部(三浦半島)に位置していて、古代の舟運ルートと関係してつけられた地名であると想像しています。

縄文海進時代には地峡部の幅は現在よりもはるかに狭く(特に逗子市側の田越川[]の谷底平野のほとんどは海面であったと思われます)、古代にあっては舟を利用できない陸地部は大変狭かったと考えます。

※甚だしい空想ですが、田越川(タゴエカワ)のタゴエはタオ(=峠)コエ(越)ではないかと疑っています。

この「船越」の場所で一旦舟を降りて陸行し、タオ(=峠)を越えて逗子市側の水面で別の舟に乗り換えたと想像します。

曳舟という人文現象が全くなかったと断定することもできないと思います。担げる小さな舟なら運べると思います。

横須賀市船越の位置
グーグルアース検索画面


2013年6月14日金曜日

鏡味完二の「船越」≠曳舟説

地名「船越」に関する鏡味完二の語源説 2

鏡味完二の「船越」≠曳舟説を紹介します。この論に対する感想・考察は追って別記事とします。

1 志摩半島の船越

参考 三重県志摩市大王町船越

1-1 曳舟の実体があった
鏡味完二は志摩半島の船越(地元発音 フネコシ)における曳舟について次のように記述しています。
「平素は漁業用の船が表海に、農業用の小船が裏海にのみあった。ところが真珠の仕事が忙しくなると、表海の大きい船を裏海(英虞湾)へ移し入れる必要が生じてくる。それには現在の船越の町を横切る2筋の道路の何れかを通って船を曳いた。手漕ぎの1ton.程の船であれば、56人で吊って歩いた。それより大きい船になるとコロに用いる横木(この地方ではスベリという)を船の下側に差入れ乍ら動かした。」昔はこの地峡はもっと狭かったこと、昭和67年に深谷水道という運河が設けられてから曳舟はなくなったことも記述しています。

これだけの明らかな歴史とその位置から船越の地名が曳舟という社会慣行に由来していることは当然のように見えるが、次の証拠から、船越の地名由来は曳舟ではないと鏡味完二は論を進めます。

1-2 地名「船越」が曳舟に由来しない理由
ア 船越村役場所蔵「志摩国英虞郡船越村地誌」(著者及作年不明)を繙くと、「海岸ハ岬湾出入シ渡船海路ノ要津ナルヲ以テ船越ト名ク可シ」とあって曳舟由来を説いていない。
イ 以前この集落は「大津波(オオツバ)」といったが、忌字をさけて「船越」と改めた(年代不詳)。(同村助役談)
ウ 近くに、尾根に舟形の窪みのある峠道の通ずる場所の小字名に「船越」がある。

以上の情報から、鏡味完二は曳舟の社会慣行のあるこの場所にもともと船越地名はなかったことを明らかにしました。
そして、「大津波」を改めた際に、(曳舟とは関係のない、近くの)古い峠地名(字名)の「船越」を用いた(所謂「地名の拡充」)のか、あるいは、村民が社会慣行に従って新たに「船越」を構成したかは不明としています。

何れにしても、曳舟の行われる所に船越の地名が元はなく、返って丘の上の峠地形のことばとして存在していたことから、「船越」という古語は曳舟の意味ではなかったと推論しています。
峠地形の語としての存在が古いということと、同一地域社会で同時代に、2つの同音異義の言葉が併用される望みは薄いから、そのように推論できるとしています。

2 船越地名の分布とその語源

船越の分布

船越の分布図をみると、「その位置からいえば海岸にあるものよりは、寧ろ内陸のあるものの方が多数である。更に海岸にあるものも、その半数は地峡部に存在しない。更にもう一歩進んで地峡部に位置するものも、その地峡部が数十mあるいはそれ以上の山岳丘陵になっていて、到底そこを曳舟など不可能なものが多い。」としています。
5例を説明しています。

A 姫路市の西部

「姫路市の西郊で、「船越山」があり、小径がそれを乗越えている。この小丘は横からみると舟形にみえる筈である。」

B石巻市北方

参考 宮城県石巻市小船越

「北上川の分流の追波川の屈曲部で、「小船越」という地名は昔は川舟がそこを通ったかどうかはここに今解らないが、恐らくは船形の狭隘地形と見られる。」

C横須賀市北西方

参考 神奈川県横須賀市

「横須賀湾の北西に隣る長浦湾に臨む「船越」という集落で、曳舟などは全然考えられない地形であり、これも恐らくその背後の峠のスカイラインの形態からくる船越地名であろう。」

D佐世保市西南方

参考 長崎県佐世保市

「佐世保湾の西側の半島の1部分で、その地峡部に近く「船越」の集落名がある。所が地峡部には40mの丘が連なり、現在では村道がここにトンネルをうがって通じている程の、険阻な地形であるから、この部分を船が通れる道理はない。地形図によればこの地峡あたりに、その横からのプロフィルで23の船形に窪んだ地峡があり、そこを船でなく、人が越えた意味の「船越」という地名が附けられたものと思われる。」

E波切西方

志摩半島の「船越」で、最も曳舟に由来する地名らしく思われる例であるが、そのような解釈のできないことは記述の如くである。」

この例示の後、鏡味完二は次のように結論付けています。
「峠の地名で論じたことがあるように、「~越」という峠地名は、~坂や~峠という峠地名よりも古い型のものであるということから、「船越」という地名もまた古代のものといわざるを得ない。地峡部を曳舟する人文現象が一定の個所で、それが地名となる程に頻繁に行われるということは、それは時代の下った頃とみるべきで、そしてその頃にはもう曳舟の意味の「船越」が地名となる余地の少ないほど、別の地名が早くから与えられ、稀にそういう機会があったり、志摩の船越町のような場合が少々あったりする程度で、大多数の船越地名は「人が船形の峠を越える」意味に由来する結果地名となったものと解される。」

本稿は現代地図を除き、「鏡味完二、日本地名学 科学編、昭和32年、日本地名学研究所」による。


つづく

2013年6月12日水曜日

地名「船越」に関する鏡味完二の語源説 1

ブログ「ジオパークを学ぶ」を再開するためのテーマとして地名「船越」を取り上げ、いくつか記事を書いてきました。情報もいろいろ集まり、面白くなってきたと思っていました。ところが、地名学の大御所である鏡味完二(注)によって、世に流布している見立てとだいぶ異なる検討が行われていることを知りました。

鏡味完二の「船越」語源説(「船越」≠曳舟説)はなぜか、現在ほとんど知られていないと感じます。

しかし、私にはかなり説得力があり、到底無視できません。
これまでの私の見立てを大幅に修正せざるを得ない状況に追い込まれつつあります。

とりあえず、鏡味完二の語源説を年代を追って紹介します。鏡味完二の語源説紹介の後、その検討と感想を述べたいと思います。

注)鏡味完二:戦前から戦後にかけて活動した日本を代表する地名学者の一人。(1909-1963)。「地名学」(日本地名学研究所)、「日本地名学 科学編」(日本地名学研究所)、「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)など著書多数。

1 鏡味完二の1942年の「船越」検討(「船越」=曳舟説)
まず、鏡味完二は1942年の論文「海岸の地名 船越、福良等の分布」(地理学評論第18巻、第5号、399-425)で「船越」地名を検討し、吉田東伍の地名辞書等を根拠に「船越」=曳舟説を展開しています。
これまで私が信じてきた説であり、現在も一般に信じられている説と同じです。
この論文だけを見つけて来たならば、「船越」に関する情報が増えたと無邪気に喜んでいたと思います。このブログの記事作成ももっと素早く沢山書いていたと思います。

次に、この論文(「船越」=曳舟説)を画像で引用します。
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鏡味完二(1942):「海岸の地名 船越、福良等の分布」、地理学評論第18巻、第5号、413-416
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引用論文の第21表に24の船越地名をリストアップしており、そのうち6地名には*印をつけて、「船越地形のないもの」としています。
追って紹介する後日の鏡味完二論文(「船越」≠曳舟説)の伏線となる情報です。

なお、類似地名として堀越や満越をあげ、(百貨店名称の)三越が満潮を利用して初めて交通できた事に関連するかもしれないと述べているところは興味をそそられます。

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参考情報

この記事では戦中学術論文を引用しましたが、私は、日本の主要な科学技術論文が明治期以降ほとんど全てWEBで閲覧できることをブログ活動の中で知り、重宝に利用しています。

J-STAGE(科学技術情報発信・流通総合システム)(独立行政法人科学技術振興機構)

このサイトを利用することによって、いちいち国会図書館等に足を運ぶ手間が減少しました。
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つづく