2011年5月29日日曜日

中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 2


2 光の抗するモノ
第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)
・「モノ」は3つの仕方で「ある」の事態に関わっていると説明しています。(「ある=あらわれる」の全ての位相と過程にかかわる。)
・モノとは第1に、タマ=霊力の強度を包み込み収める容器のことを指し、象徴の形態面をあらわし、その内容がタマであるとしています。
・モノとは第2に、「内包空間で充実しきったタマの霊力を、外の世界に引き出したり、人体に付着させてその人の威力としたりするさいに、霊力の引き出しや付着を媒介する道具として用いられるもののことである。」としています。
・モノとは第3に、「ある」がはらんでいる否定性を受け入れるために用意された、記号的な容器としています。純粋肯定性であるタマが内包空間を出て外気に触れると、避けがたい衰え(ケ)が発生するとしています。それをモノが引き受ける(モノノケ)と説明しています。
・従って、日本語の「記憶」には物体性のモノの中に、存在の根源を表すモノの意味が刻み込まれていて、モノはハイディッガーのいう「存在」の事態へと深くかかわるとしています。
・次いで、古代ギリシャ語のピュシス1語が、自然物をも言い表せば、そうした自然物の全体が「ある」ものとして「立ち現われる」仕方そのものをも、言い表そうとしていると説明しています。
・フッサールが「現象」ということばでしめそうとした過程の全体を現すという意味で、モノとピュシスの共通性を説明しています。
・しかし、モノの「あらわれ」とピュシスの「立ち現われ」の内容には重大な異質性があること指摘しています。
・ピュシス的技術によって強いバイアスを受けた思考から、ヨーロッパの原理が生まれ、「世界のヨーロッパ化」が行われたと説明しています。
・それに対してモノ的「技術」は、こんにちのグローバル・スタンダードであるピュシス的「技術」がっくりだす世界とは、異質な世界をつくりだす能力をひめていると説明しています。
・そして、「モノとタマをめぐる日本語の思考には、ピュシスをめぐるギリシア的思考に優に匹敵する強靭さと立体性がそなわっているようであるので、そのままのかたちで、別に現代的な補強などを加えなくとも、モノはりっぱにピュシスをめぐるハイデツガーの思索などと、互角に渡りあうことも可能なのである。」と結論付けています。
第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)感想
・この節の説明で、存在にかかわる日本と西欧のコトバの類縁性と異質性の理解が進みました。
・モノの思考が、西欧のピュシス思考に互角に渡り合えるだけの強靭さ、立体性を備えているということの気づき(評価)が、著者に「新しい唯物論創造」とまで言わせた原動力になっている想像しました。

第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)
・色に喩えると、モノは雑色のまだら色、ピュシスは純粋な単光色と説明しています。
・ハイディッガーの著作を引用しながら、著者はピュシスを、閉ざされたり、覆い隠されたり、中に折り畳まれている状態から、覆いを取られ、聞かれた、平明な状態のうちに出てくるという意味での立ち現われること、と説明しています。
・また著者は、ピュシスはそれ自体が、「現象学」という近代の哲学のめざしたものそのものを、みごとに表現するものとなっているとして、そのことについて説明しています。
・現象学は、経験の本質を、光や「ことわり」の明るさのなかへの出来(しゅったい)としてとらえて、その経験の確実な基盤ないし起源を探し出そうとしてきたと説明しています。
・著者は次の文章でこの節を結論付けている。「ピュシス=西欧における『ある』をめぐる思考のいっさいが、ここから発生している。その本質は、自然のすべてを思考の対象の位置に還元して、理解と操作の対象としていこうとしている近代科学においでさえも、表面からは覆い隠されてしまっているが、瞑い起源の場所で活動をつづけている。現象学はそのような隠蔽された起源の場所を、ふたたび開かれた明るさのうちに持ち来たらそうとしてきたのだ。」
第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)感想
・ピュシスが根源語となり、「ある」の西欧的思考が生まれた。そして、ハイディッガーを経て現在「現象学」がこのピュシスの解釈により「隠蔽された起源の場所を、ふたたび開かれた明るさのうちに持ち来たらそうと」しているという西欧哲学の動きを理解しました。

第3節(モノとピュシスの違い)
・著者はピュシスについて次のように説明しています。「ピュシスが瞑さの中から明るさ(開かれ)のうちに『立ち現われ』てくるのは、みずからのうちに光を内蔵していたからである。この光は打ち開かれた状態を自分の本性としていて、そういうみずからの本性を実現するために、覆い隠していたものを破って、広がりのなかに自分を放っていくのである。」
・一方、モノについて、ピュシスとの対比として次のように説明しています。「モノの場合は違う。タマが自分を覆い隠す『かひ』の内部で成長をとげるのは、植物の根が土中で増えていくように、自分を分裂させることによって、みずからにみなぎる強度の膨張に耐えるためなのだ。モノには隠されたもの、隠匿されたものなどはない。内包空間での強度の膨張(なぜそれがおこるのかは、思考されない。おそらくはそれは思考の外部として、内包性としてすら思考しえないものであると考えられたからではないだろうか)によって、タマは分裂を重ね、おびただしい増殖をとげていく。そして、とうとう内包空間での緊張に耐え得なくなった『タマ』強度が、『かひ』を破って、外気のなかに『あらはれる』。その瞬間にタマの組成には根本的な変容がおこって、存在の卵の中から雛鳥が出てくる。しかし、この存在の雛鳥が光ではないことに注意しよう。自分を不透明にする皮膚と外気の中での生活に耐えるための体毛に覆われて、光でもなく闇でもなく、まさに光と瞑さの雑色の混成系として、ひとつの『ある』が出現する。厳密な意味でいえば、これは『光の哲学』である現象学のとらえようとしてきた『ある』のはじまりではない。」
・ユダヤ教の光の意味の言葉も日本語のモノとつながっていると述べている。
・最後に、モノに触れて、「ピュシス的な思考圏に生まれた現象学は、エロティック化の変容をこうむることになるだろう。」と述べている。また「そうなったときに、ピュシスの思考に深くつながれた西欧の技術をめぐる思考には、はたしてどのような変容が生ずることになるだろうか。モノとタマが呼吸している陰翳にみちた瞑い光が、どのような技術の思考を生み出すだろうかという、まだ誰によっても答えられたことのない問である。」と結んでいる。
第3節(モノとピュシスの違い)感想
・モノとピュシスの思考の相違について、一応理解できました。
・西欧の哲学としての現象学がモノから受ける影響によって変容をこうむることになり、西欧の技術をめぐる思考がどうなるか、ということと、モノがどのような技術の思考を生み出すか、誰によっても答えられたことがないと著者は言っています。つまり、著者が始めて、こうした問を発したということだと思います。

第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)
・著者はレヴィナスの「現象学のエロティック化」を紹介し、私たちは『技術論のエロティック化』を目指し、それが今日の必需品だとしています。
・また、ハイディッガーの「技術論」における反省(西欧的・ヨーロッパ的思惟が従来「存在」という名の下に描き立てねばならなかったものの本来の特質が、どこに潜み、どこに自らを隠蔽しているかを、反省すること)を紹介しています。
・そして、その反省を西欧的思惟とは異なるモノをめぐる思考を足がかりに行うとしています。
・反省の最良の材料は、「もしも技術にかかわることの本質がアレーテイア的非隠匿性とそこから派生する「立て上げ」「挑発する」近代技術というものとは違うふうに思考されるのだとしたら、それがいったいどんな形態をとることになるかを探ること」だとしています。
・最後に「モノをめぐる思考はしかも民族的な文化の境界をこえて、多くの文化の中で類似の深化と発達をとげてきた。その意味では、いまも惑星的規模のスタンダードとなった西欧的なアレーテイアの磁場におかれた存在思考よりも、モノ的な存在思考のほうがはるかに普遍性をもった思考法なのである。そこから「陰翳の技術」とでも呼ぶべき、エロティックな別の種類の技術の原理を引き出してくることが可能である。」と述べています。
第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)感想
・モノをめぐる思考により新しい種類の技術原理をつくることが可能であるとし、それの参考として、「技術論のエロティック化」「陰翳の技術」などのキーワードが登場します。
・今の自分の知識量では残念ながら「技術論のエロティック化」「陰翳の技術」で著者が言わんとするイメージが半分程霧の中です。ですから、「モノをめぐる思考により新しい種類の技術原理をつくることが可能」と著者が言っていても、それが本当に可能であるのか、自分では判断(イメージ)できません。
・自分にとって、レヴィナスの著書や現象学について理解する必要があります。
(つづく)

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