2011年5月29日日曜日
中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 1
中沢新一「緑の資本論」の付録論文「モノとの同盟」をパラパラめくっているうちに、ついつい引き込まれてしました。予定外でしたが、短い論文でしたので、一気に読みきりました。
いろいろな感想を持ちましたので、メモを残しました。
●中沢新一「モノとの同盟」の目次 (節区分は著者による、節見出しは学習者による)
1モノへ向かって
第1節(導入)
第2節(上代日本語のモノの意味)
第3節(モノの技芸の実際)
第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)
2光に抗するモノ
第1節(日本語のモノと古代ギリシャ語のピュシスの類縁性と異質性)
第2節(明るさや透明さを事物にもたらす真理と関わるピュシス)
第3節(モノとピュシスの違い)
第4節(モノ思考による「陰翳の技術」の可能性)
3モノとの同盟
第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)
第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)
第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)
第4節(モノとの同盟の必要性)
1 モノへ向かって
第1節(導入)
・現代日本語の「もの【物】」の国語辞典における意味の深さを最初に紹介しています。
・次いで、現代の、生命を非人格的なモノとして取り扱う技術が、幸福とともに災禍をももたらしかねないと警鐘を発し、その理由として、生命が操作可能な外延的対象としてのモノにとどまらず、「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象」などの内包的なモノにも深くかかわっていることを述べています。
・この例から、「モノを単なる物体である状態から解放していかなければならない。」と述べています。
・そして、「クルミの殻のように固いモノ概念の内部に、複雑な構造と運動を発見していかなければならない。こんにちもっとも必要とされているもの、それはモノをめぐる新しい思考を創造することだ。これを新しい唯物論の創造と呼んでも、的ははずれてはいない。」と結んでいます。
第1節(導入)についての感想
・この論文では「モノ」と書いて読み手の意識集中を促していますが、「モノ」は「もの【物】」であると理解します。
・モノを外延的対象としてのみ扱う昨今の風潮に警鐘を鳴らし、モノ概念の中に内包的な意味を考えることによって、モノをめぐる新しい思考創造を中沢新一は目指していると理解しました。
・モノの内包的意味の例として「モノノケ」や「モノに憑かれる」のモノが紹介されていることから、「内包的」の意味は「人の心内部の現象にかかわる」という意味であることを理解しました。
第2節(上代日本語のモノの意味)
・著者は物部氏の名前のモノの意味を宇仁新次郎氏の引用文で説明し、仏教以前の古い形態の鎮魂法とそこから派生する裁判や軍事の技にもかかわり、大きな影響力をもったと考えています。つまり、物部氏は文字通りモノを取り扱う豪族で、土地の精霊の威力を道具によって捕獲・掌握して管理し、裁判や軍事の技に大きな影響力を持ち、天皇に仕えていたと説明しています。
・しかし、厩戸皇子や蘇我馬子などは、土地の精霊を直接的に象徴的な道具によって掌握する伝統的な技芸とそこから派生する権力をあえて否定して、外来の普遍レベルに立つ仏教を受け入れようとしたとしています。
・ここにはげしい抗争が発生し、武力が動員されて、物部守屋は蘇我馬子を中心とする豪族連合によって減ぼされたとしています。モノの技芸の敗北とともに、法(律令)の整備が始まると説明しています。
第2節(上代日本語のモノの意味)の感想
・物部氏のモノの技芸が敗北して、律令社会がスタートしたということが、上代日本におけるモノの技芸の没落を意味していると、よく理解できます。
第3節(モノの技芸の実際)
・筆者は、物部氏が管理していたモノの技芸について説明しています。十種の神宝(鏡や剣や特殊な布や玉)を使って、「死せる者も生き返る」ような力を発揮させ、その力は非感覚的で内包性の力であるから、これを霊力ともタマともよぶことができるだろうとしています。それは、いわゆるタマフリ、鎮魂の方法であるとしています。
・折口信夫の「霊魂の話し」を引用してタマ(「たまご」や「かひ」の内部で成長をとげる)、「ある(存在)」(殻を破ってこの世界にあらわれる)、モノ(物体性をそなえる。道具性を関係を持つ。)などの関係を説明しています。
・モノとモノイミの内面的なつながりについても論じています。
・モノということばは、内包量であるタマが外延的な世界の「外気」に触れる瞬間に発生する本質をとらえようとしていると説明している。
・ことばのひだは複雑に折り込まれ、タマフリに用いられる鏡や剣や玉そのものが、モノと呼ばれる。
第3節(モノの技芸の実際)の感想
・知識として、十種の神宝や鎮魂、タマフリなどについてこれから学ぶこととします。その知識がないとモノの技芸の真の意味がわかりません。WEBで調べると、「神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが『たましずめ』である。『たまふり』は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。」(ウィキペディア「鎮魂」)と出ており、死者の霊を鎮めるという意味よりはるかに広大な意味を有しているようです。折口信夫の「まれびと」論が参考になるとも書いてあります。
・折口信夫の「鎮魂の話」は必読であると感じました。岩井國臣「ジオパークについて」→中沢新一「モノとの同盟」→折口信夫「鎮魂の話」と引用されている知識をより深く理解しようする旅が発生しています。読みたい本が幾何級数的に増大するので、限られた時間の有効活用法がテーマになりそうです。
第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)
・物部氏は豪族の神宝=モノ(大地と結びついたタマ=霊力が込められている)を大地と切り離して大和で集中管理して、天皇に豪族を服属させたことが説明されています。
・その時代の権力は内包から外延にいたる横断的な性格をもっており、その横断能力が技芸とか芸能とか技術とか言われたと説明しています。
・物部氏没落以後の鎮魂技芸の拡散伝承例として、物部氏に繋がる他地方の神社、大本教、修験道、四国山中の「いざなぎ流」、奥三河から信州・遠州の境にかけての「花祭り」が紹介されています。
・生命現象がゲノムのような物質的過程に還元され、技術によって操作され、商品化される現代にあって、民俗学はそのような還元や操作を受けつけないモノの活動の領域がたしかに存在して、いまも活動を続けていることをあきらかにしようとするのであると述べています。
第4節(民俗学の必要性 生命現象の物質還元を受けつけないモノの活動領域の存在)の感想
・内包から外延にいたる横断的な能力による権力とは、魔術師(人の操作ができる祈祷師)が首領で軍や警察、行政機関を自由に動員できる状態ということと理解します。人集団の心理を操作して行動に動員できる能力を警察や軍事、生産に活用して社会が動いたと理解します。
・物部氏の鎮魂技法の伝承を知り(民俗学)、そこが生命現象を物質的に還元し操作することを受け付けない領域であるとしていることは、よく理解できます。
・著者は「民俗学的なモノの深みへと降り立っていく実践」のことを「新しい唯物論の創造」と呼んでいます。これからの活動イメージの旗を立てたというふうに理解します。
・新しい唯物論の有用性・可能性が、以下の章でどのように明らかになるのか楽しみにして、読書を続けます。
(つづく)
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