2011年5月29日日曜日

中沢新一「モノとの同盟」読後の感想 3


3 モノとの同盟
第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)
・タマ、モノをめぐる折口信夫の考えは、モースの「贈与論」から知識を得てヒントとしているとしています。
・タマ-モノとマオリ族のハウ-マウリが共に増殖性や多産性と結ばれておりその思考の類似性について詳しく説明しています。
・マオリの社会では「霊的なもの」と「物質的なもの」は区別されていない、霊と経済とはそこでは一体であり、存在論と幸福論も、そこでは一体をなしているとしています。
・折口信夫の著作(「原始信仰」)を引用しています。
・また、狩猟時代の日本でも「霊的なもの」と「物質的なもの」が区別されていない世界を次のように鮮やかに描いています。
・「狩猟時代の古い日本語をしゃべる人々に、あなたたちの幸福とはなんですか、という質問をしたならば、『それはあなた、さちの力によって、森のタマ(霊力)が動物のからだというモノをまとってあらわれたその動物たちを、うまく仕留めることができることですよ。そうすれば、タマの霊力が私たちにも分け与えられ、生命は増し、私たちはこよない幸福(さち)を味わうこともできるのです』などという答えが、返ってくるにちがいない。『さち』ということばは、この場合、モノという容器(これが狩猟の場合には、動物のからだということになる)に含まれて人間の前にあらわれた森の多産力をあらわすタマを、その容器を破壊することによって、抽象的な力として取り出して、自分たちの体内に取り入れるための、一連の技術(技芸)とそれに使用される道具のことを指していた、と考えることができるだろう。」
・狩猟の過程と鎮魂の過程が鏡面対称のような関係にあることもタマとモノの関係から説明しています。
・そして、このような狩猟社会の思考法が、ピュシスの思考における技術が不合理な「増殖」に結び付けられているのと違い、増殖や変容や分裂に適用され、真理ではなく、人間に具体的な幸福(さち)を与えるものだと説明しています。
・さらに、狩猟社会の思考法の豊かさと広がりを次のように説明しています。「しかも、そのモノ的技術は人間の宗教の根源である『信』ということに、深くかかわってもいる。狩猟社会の人々は、モノ(動物や植物のからだ)に化身した森のタマが、自分たちに自然の賜物を贈与してくれていることを、深く信じていればこそ、あやういギャンブルのような行為を続けていることができる。そこからは『信』も発生すれば、『礼』も発達する。人々は森のタマシヒの本性は『善』であり、その『善』なる力はみずから増殖をおこなって、『ある』の世界を豊かなものにつくりだしている、と信ずることができただろう。人はそれに対して『礼』をつくす必要がある。むさぼらず、必要以上に奪うことなく、大いなるものの前にはつつましく頭を垂れるのだ。」
・著者はこのような「“ある”の哲学」はハイディッガーの哲学より豊かで、その表現はネイティブアメリカンの精神的伝統やチベットの仏教的精神や神道の自然哲学などにかろうじてみいだすことができるだけになってしまったと指摘している。
・この節の最後に、今日の世界で物質的な増殖は恐るべきものであるが、「物の増殖」を包み込む全体性の直観は失われてしまっているために、モノははじめから物でしかなく、価値としての同一性を絶対に失わないと述べています。
・そして結論として、「このような世界を物質主義と呼んで、それに精神なるものをもって対抗しようとしても無駄なことだ、と私は思う。それよりも重要なのは、物質でもなく精神でもない、モノの深さを知って、それを体験することだ。モノは技術の本質をあらわす。そしてそれは同時に、宗教と倫理のはじまりにつながっている。精神と物質を分離した瞬間に、そういうモノは見えなくなってしまうのである。」と述べています。
第1節(狩猟社会の思考法の豊かさと広がり)感想
・この論文の中で最も面白い(私の知的興味を満足させてくれる)部分がこの節です。
・この節で述べていることが、「新しい唯物論の創造」を考えていく一つのヒントになるような気がします。
・狩猟社会の思考法、モノの思考法が現代社会に有用である可能性を、私に予感させてくれる節です。

第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)
・著者は「タマ-モノの場合にもハウ-マウリの場合にも、大いなる同一性の内部から増殖ということがおこっている。狩猟社会における『はじまりの』思想家たちは、この同一性をひとつの概念のうちに固定しようとはしなかった」と述べています。
・ユダヤ教やキリスト教のように、不変の同一性のままに「創造されることもなく」「変化することもなく」「正義そのものである」ような神が、ただひとつの神の概念として、大きくクローズアップされてくる宗教においては、現実の生活の中でしめされている恩寵や贈与や増殖の問題を、その神の概念のうちに包摂していくことが、思想家たちに大きな課題をつきつけると著者は述べています。
・そしてキリスト教で、「『正統』と呼ばれた人々はこれを積極的に肯定して、突発的で不可解で予測不能の発出をおこない、とびはねながらいやましに成長をとげていくようなこの霊の活動を、存在(ある)そのものである神の全体性のうちに、正確に位置づける努力をおこなった。ここから、キリスト教に独特な『三位一体』の考えがつくられてきた。」と結論づけています。
第2節(キリスト教の「三位一体」による増殖問題の解決)感想
・キリスト教の「三位一体」が増殖を教理に包摂するための仕掛けであることを知りました。

第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)
・著者は、三位一体論によって、人聞ははじめて「資本」というものをあつかえる論理を開発したのであると論じています。
・タマやハウは、そもそものはじめから、「ある」に内在している資本の原理に触れようとしていたとして、次のように説明している。「じっさいハウは、マオリの人々にとって、『越える、越え出ている』『過多、必要とされる尺度を越えた部分、余分』としても理解されていた。タマ-モノについても、同じことが言える。古典や民俗のなかで、タマは多産性の原理のことをあらわしていたが、人類学者によって記録されたハウの現実的な用例に照らし合わせてみると、この多産性のもたらす『儲け』の部分が、のちに幸福をも意味するようになった『さち』に相当していることになるだろう。」
・一方、キリスト教の三位一体論では、深遠なる同一性の場所(御父)から、同質の「御子」が生まれたという信仰上の事実を、聖霊の働きを仲立ちとする、精妙な(パラドックス)論理によって説明することができたと解説しています。
・それは、「もちろん説明といっても、あふれかえる充溢力によって増殖的な働きをおこなう聖霊というものが、はじめから論理の構造のなかにセットされていることによって、恩寵や愛や至福といった信仰的な現実のしめす構造とパラレルな関係になっているだけのことであるから、けっして合理主義の思考者を満足させることなどはできない。その構造とそれを表現する論理とを受け入れることができるためには、信仰上の『回心』が必要である。しかし、ローマの現実の経済生活で日々おこっていた出来事は、三位一体の論理による現実の理解を要求するものである。商人的資本主義は、ものごとの頭部でおこる増殖作用を、日々体験していたのであるから。」と補足説明しています。
・また、「聖霊主義の流行は、あきらかに資本の発達と連動している。人々は、資本主義の精神の形成に聖霊の働きとの類縁性を感知していたのだ」とも述べています。
・著者はマルクスの引用なども行いながら、「内包空間のうちに充満し、増殖し、多様な発芽をおこなう聖霊的な力能は、本質的に『贈与の空間』に所属するものである。ところが、資本主義は人間にとってのいっさいの有用物を商品にしてしまう。そのとき、贈与の空間は瞬時にして消滅する。そして、力能も商品化されて労働力となる。その労働力を利用して、資本はみずからの『岬』において、価値増殖をおこなうのである。」としています。
・最後に、「森のハウは人々に富をもたらし、タマの活動の先端部(そこでタマは身体性の容器であるモノに変容をとげた)では『さち』があらわれた。ところが、資本の生み出す『幸福』とは、ハウやタマや聖霊の亡骸を堆積した、みかけの増殖のうえになりたった幻想なのである。そこには『さち』にはあったようなリアルは最早ない。キリスト教の三位一体論は、資本の出現を準備した。しかし、それが出現してしまったあとでは、古代的な豊穣さを抱えたまま、三位一体論そのものが沈黙のなかに没していくのである。」と結論付けています。
第3節(「三位一体」論による「資本」を扱える論理の開発)感想
・三位一体論が古代的豊穣さであり、それが資本を扱える論理を開発し、資本出現の準備をした。そして、資本主義が生まれると贈与の空間は瞬時に消滅し、リアルな「さち」はなくなったという歴史認識をこの節で知りました。

第4節(モノとの同盟の必要性)
・この論文の結論が「モノとの同盟が必要だ。」です。
・その説明として「新しい同盟は、モノとの間に結ばれなければならない。非人格的な力能であり、結氷寸前の海水のように、物体性のモノや昔の人たちが霊力とも聖霊とも呼んだ非感覚的な内包力などが、混成系をなしながら、複雑な全体運動をおこなっている、そういうモノとの間に、人間は真実の同盟関係をつくりあげることが必要なのである。」と述べています。
・また、「人間がこの同盟者の姿を見失ってすでに久しい。その間に、モノは単なる物(オブジェ)となり、恩寵の増殖力にふくらんでいたその強度の場所は、数だけはおびただしいがすべてが影のような商品につくりかえられて、モノの『ふゆ』の過程は資本の増殖へと変貌してしまった。その結果、かつては人間の世界に豊かなふくらみをあたえていた贈与の原理は、世界の表面からは消えさり、かつて宗教と呼ばれたものの多くの部分が、資本の論理の別表現でしかないさまざまなカルトに頽落していってしまった。」と説明しています。
・また、「モノとの新しい同盟関係の創造が、いまこそ求められている。モノは理性(ことわり)の敵などではないし、ましてや精神に対立する物質性の体現者でもない。モノは瞑く暗い光の中から生まれて、ものごとに『ことわり』をもたらすアレーテイアの明るい光の世界に向かっていったかと思うと、腫を返して、ふたたび瞑い光の奥に引きこもっていこうとする。」とも説明しています。
・著者は、実はギリシア人にとってのピュシスが、はたしてほんとうにハイデッガーが描いたようなものだったかどうかはあやしいものだと疑問を投げかけています。モノと同じように、ピュシスもまた、瞑い光の領域の住人であり、最後までその性格は失われていなかったのではないだろうかと疑問を呈しています。
・「変わってしまったのはピュシスのほうではなく、人間のほうだったのではないか。」と疑問形ですが、著者の考えを述べています。
・著者は、この同盟関係の樹立にさいしては、「技術」というものが大きな意味を持つであろうと述べて、次のように解説しています。「私たちがここで見てきたように、タマとモノとの間に存在する微妙な差異には、内包空間の強度とそれに働く技術との繊細な関係が反映されている。モノはそれ自体が、すでにして道具であり、技術なのであり、そのモノを上手に利用して、人間は長いこと、瞑い光の充てる内在性の空間の冒険をおこない、伝統をつうじて、個人の内的体験を大きな公共的知識の集積体へと成長させてきたのである。」
・そして、次の例をあげています。「たとえば数万年におよぶシャーマニズムの探求は、より高度に洗練された瞑想の体系へと受けつがれて、今日におよんでいる。それは大脳と神経組織の内部でおこる量子論的な過程に踏み込んでいけるような、いくつもの特別な技術を開発してきたが、そのおかげで、人間は瞑い光というものがどのような力能を持ち、内在空間でどのような運動をくりひろげているのかを、つぶさに観察することができるようになった。」
・この論文の最後の文章は宗教の死について、次のように語っています。「宗教は、モノとの新しい同盟をつくりあげるさまざまな実践へと、解体吸収されていくのである。さまざまな実践、それは個人の探求であったり、協同の実践であったり、伝承文化運動の形をとったり、市民運動と呼ばれることもある。あらわれる形はさまざまだ。しかし、それらすべてがひとつの共通点を持つことになるだろう。それは非人格的なモノへの愛である。人間主義の狭量さを超えて、資本のメカニズムをも凌駕して、広々としたモノの領域へと踏み込んでいくのである。そのとき、宗教は死んでよみがえるだろう。宗教がみずからの死復活をおそれてはいない。だいいち、そのことを説いてきたのは、宗教自身だったのだから。」
第4節(モノとの同盟の必要性)感想
・モノとの同盟とは、一言でいえば、狩猟社会の思考法の復活であると理解しました。
・モノとの同盟では技術が大切であり、それはたとえば瞑想であり、それにより内在空間の運動をつぶさに観察できるとの記述については、その凄さを知識として、より具体的に知りたいと思います。
・狩猟社会の思考法、モノの思考法の有用性、必要性は肯定的な感想を持ちましたが、現実世界でこれらの思考法を復活させる糸口の活動についての情報はこの論文から得られませんでした。
・瞑想がモノの思考復活の糸口の一つかもしれませんが、知識がないので、分りません。
・現実世界で、狩猟社会の思考法復活をどのように行うのか、中沢新一のこの論文以降の著作や他の識者の著作を読んで参考にしたいと思います。
・この論文をきっかけにして折口信夫などの著作物にアクセスすることになりました。狩猟時代(縄文時代)の思考法について、今後幅広い学習を展開していけそうです。

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