2013年5月19日日曜日

地名「船越」の由来による分類


地名「船越」について、角川日本地名大辞典によりその由来を調べてみました。
その結果を次に表と図でしめします。

「船越」地名由来の角川日本地名大辞典調べ
由来区分
「船越」地点名
地峡での船陸送
9
岩手県山田町、三重県志摩市、島根県西ノ島町、愛媛県宇和島市・愛南町、愛媛県愛南町、福岡県糸島市、長崎県佐世保市、長崎県対馬市、沖縄県南城市
地峡での船乗継
1
長崎県諫早市
渡船場
4
宮城県石巻市、秋田県男鹿市、埼玉県加須市、静岡県浜松市
舟運(船着場)
4
千葉県多古町、三重県南伊勢町、兵庫県佐用町、広島県広島市
人名由来
2
栃木県佐野市、鳥取県伯耆町
由来未記載・地名未収録
38
合計
58

「船越」地名は国土地理院国土ポータルにより検索した結果。

地名由来別「船越」地名分布

考察
1 由来が掲載されている地名は約1/3
58地名の内20地名の由来が書いてありました。(約35%)これだけの情報があれば、残りの由来未記載や未収録の地名について、その由来を類推することがかなりできると思います。

2 地峡での船陸送と地峡での船乗継の合計が半分、渡船場・舟運・人名由来が半分
地峡での船陸送と地峡での船乗継が半分で主として西日本に分布しています。一方、残りの半分は渡船場・舟運・人命由来であり、主として東日本に分布しています。
この分布の意味解釈の可能性として次の2点に着目しておきます。
ア 地峡での船陸送という行為は西日本で発生した生活技術で、それが人の移動によって東日本にも広がったと仮説します。そう考えると、西日本に分布が濃い理由が説明できます。
イ アとも関連すると思いますが、航行技術が西日本から東日本に伝播する途中、何らかの理由で「船越(フナコシ)」という言葉の使い方が西日本と東日本で異なってしまったと思います。
西日本の船越は、地峡部における船の陸送を意味していて、航行不可能地域を航行するための技術です。
一方、東日本では通常では船を活用できないような難儀な場所で船を活用する技術をも「船越(フナコシ)」と呼ぶようになったのではないかと考えます。

3 納得できない地名由来が幾つかある。
上記表と図は角川日本地名大辞典の記述をそのまま使っていますが、地図と照合するなどすると納得できない辞典記述がかなりあります。
次にその例をあげます。
【地峡での船乗継】例
長崎県諫早市の船越…地峡での船乗継として説明していますが、船の陸送と考えないと地名由来の説明にならないと思います。いろいろ傍証があっても、筆者は直接証拠(船を陸送したという言い伝えや物証)がないことは書こうとしないようです。
【舟運(船着場)】例
三重県南伊勢町の船越…筆者は「地名辞書」や地元伝承では地峡部の船陸送となっているが、地勢上妥当性を欠くと記述し、志摩国の本府からは舟行によるほかない郷だったことにちなむとみられよう、としています。地図をみると、筆者(角川日本地名大辞典の筆者)が勘違いして自分の説を強引にあてはめようとしている様子が目に浮かびます。

他にもいくつか例がありますが、地峡部の船陸送に関する情報を歴史関係者が持ち合わせしていない場合があり(「船越」という概念を知らない場合があり)、そういう場合には地名辞典における地名由来の記述にバイアスがかかってしまうように感じます。

4 角川日本地名大辞典の地名由来を参考に、自分で地名由来を検討判断する必要がある
地名辞典に掲載されている地名由来は参考にしながら、結局は自分自身で地名当該箇所の過去の地形、海陸分布、歴史等の資料と照合して船越の意味を推定することが大切であると考えました。
そうした検討判断をしないと、地名辞典の不備をそのまま受け入れてしまうことになりますし、また地名辞典に地名由来が出ていない船越の情報を活用できないことになります。

つづく

2013年5月14日火曜日

地名「船越」の全国分布


地名「船越」の全国分布を知りました。
全国を対象とした地名分布の把握は初めての経験でしたので、その方法から報告します。

1 全国地名の調べ方
全国の地名の調べ方は国土地理院WEBサイトの「電子国土ポータル」の「地図を見る」の検索を利用して調べました。

電子国土ポータルの「地図を見る」画面で「船越」の検索をかけた画面

「地図を見る」画面の右上に「検索」タブがあり、それをクリックすると地名検索のサイドバーが出てきます。
「船越」を検索すると137件がヒットしました。
国土地理院発行地図掲載の地名(主に町丁目、大字レベル)、山岳名、湾名、学校等施設名等の全てを検索して、結果がヒットします。
私は、意識して全国を対象に地名検索をしたのは初めてでしたので、感動しました。未来にはそうであってほしいと思っていた機能が普通に実現していました。

そして、さらに感動しました。検索結果をクリックすると、その地名のある地図画面が現れることです。

「船越」(北海道檜山郡江差町)をクリックしたときの画面
この画面をマウスのスクロールホイールで操作すると地図の縮尺を変えることができます。

「船越」の検討に興味が集中しているはずなのですが、電子国土ポータルの機能が持つ地名検討の可能性の大きさに半日の思考時間を占領されました。

2 地名「船越」の全国分布
上記方法で検索したヒット情報137件を地図画面で確認すると、地名「船越」は28道府県58か所における存在を確認できました。町丁目レベル(大字レベル)での地名「船越」分布は悉皆的に把握できたと言えます。

地名「船越」の検索結果
都道府県名
箇所数
名称(所在地)
北海道
1
船越(江差町)
青森県
1
船越(つがる市)
岩手県
2
船越山(二戸市)、船越・船越湾(山田町)
宮城県
7
小船越(石巻市)、船越・船越湾(石巻市)、雄勝町船越(石巻市)、船越(登米市)、船越島(東松島市)、船越・鹿島台船越(大崎市)、字船越(丸森町)
秋田県
1
船越・船越水道(男鹿市)
福島県
2
船越(相馬市)、船越(会津坂下町)
栃木県
1
船越町(佐野市)
埼玉県
1
船越(加須市)
千葉県
1
船越(多古町)
神奈川県
1
船越町(横須賀市)
新潟県
3
東船越(新潟市西蒲区)、西船越(新潟市西蒲区)、船越(五泉市)
岐阜県
1
船越(山県市)
静岡県
2
船越(静岡県清水区)、船越町(浜松市中区)
三重県
3
大王町船越(志摩市)、船越(南伊勢町)、船越(紀北町)
大阪府
1
船越町(大阪市中央区)
兵庫県
2
船越・船越山(佐用町)、船越峠(香美町)
和歌山県
1
船越(有田市)
鳥取県
1
船越(伯耆町)
島根県
1
船越(西ノ島町)
広島県
1
船越・船越峠(広島市安芸区)
山口県
4
船越(下関市)、船越(長門市)、船越(山陽小野田市)、船越(周防大島町)
香川県
1
船越・船越港(三豊市)
愛媛県
5
船越(松山市)、船越(今治市)、船越・船越運河(宇和島市、愛南町)、船越(上島町)、船越(愛南町)
高知県
3
船越(土佐市)、船越(須崎市)、船越(日高村)
福岡県
3
船越(北九州市八幡西区)、田主丸町船越(久留米市)、志摩船越・船越湾(糸島市)
長崎県
6
船越町・下船越(佐世保市)、船越町(諫早市)、小船越町(諫早市)、船越(平戸市)、美津島町小船越(対馬市)、美津島町大船越(対馬市)
宮崎県
1
船越(門川町)
沖縄県
1
王城字船越(南城市)
合計
58


地名「船越」を分布図にすると次のようになります。

電子国土ポータルで検索した地名「船越」の分布図

地名「船越」のそれぞれの詳細地図を見ると、地名は同じ「船越」でも別の意味起源のものが含まれているように直感できます。そこで、地名「船越」のタイプ分けを次の記事でしたいと思います。

つづく

2013年5月8日水曜日

地名「船越」の検討からどのように知りたい情報を得るか


柳田國男の指摘、古川清久さんの論文、WEBでのネットサーフィン等から船越というキーワードで古代における舟の陸行が地名として残り、また民俗として現代まで伝わってきていることが判りました。
船越そのものについて検討を深めようとすれば、どんどん深めることが出来そうです。
しかし、2013.05.03記事「ブログ再開」で書いたように、私は、花見川流域の本質が地峡であり、そこでは古代に船越が行われていたに違いないという問題意識から船越について調べています。
花見川流域には船越という地名はありません。また現在のところ船越に関する直接証拠も呈示できません。このまま船越一般について検討を深めいっても、自分の問題意識(花見川地峡に船越という現象が存在したことの証明)と離れて行ってしまいます。

そこで、次のような対応関係を考え、全国の船越事例から、自分が本当に知りたい情報を得たいと思っています。

花見川地峡における船越の証拠集めを加速するために他所の「船越」を知る

私が本当にしたいことは、花見川地峡で古代に船越現象が存在していたという証拠集めです。
その証拠集めを加速するために、他所の船越事例を検討することとします。

具体的には花見川地峡の次のような条件と同じような船越事例を見つけて検討したいと思います。

花見川地峡の特徴
・舟運に関連すると思われる地名の存在(「戸」(と、ど)など)
・縄文海進時代に陸地に深く入り込んだ海
・運河や放水路の建設
・地峡を連想させない現在の地形、遠ざかった海
・船越の記憶の消失

2013年5月6日月曜日

船越に関する興味深い論文に接する


船越に関する抜書きをしながらWEBで検索していたら、興味を刺激される論文に接しました。
その論文は次の2編です。
船越」古川清久、古田史学会報第68号、2005.06.01
船越(補稿)」古川清久、古田史学会報第70号、2005.10.07

その紹介と感想を述べます。

1 「船越」古川清久、古田史学会報第68号、2005.06.01
論文「船越」古川清久は次の構成になっています。
・船越という地名
・九州の船越
・対馬 小船越と阿麻氏*留神社
(氏*は、氏の下に一。JIS第三水準、ユニコード6C10
・『肥前国風土記』『延喜式』に見る高来郡駅と船越
・諫早の船越、小船越

「船越という地名」では全国の船越地名を調べた結果を概観するとともに、その意義を検討しています。参考になるので、次に引用させていただきます。
……………………………………………………………………
船越という地名があります。“フナコシ”とも“フナゴエ”とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。
 遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、・・・・・・など。
 インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、
山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。
 それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応“南九州には存在しないのではないか”とまでは言えそうです。
 勝手な思い込みながら、海人(士)族の移動を示しているのではないかと考えています。この点から考えると、大分県南部や熊本県の八代あたりにあってもよさそうなのですが、ちょっと残念な思いがします。大分にはたしか海士(海人)部があったはずですし(現在も南、北海士郡があります)、かつては海賊の拠点でもあったのですから。もちろん地名の意味は半島の付け根で、廻送距離を大幅に軽減するために船を担いだり曳いたり、古くはコロによって、後には台車などに乗せて陸上を移動していたことを今にとどめる痕跡地名であり、踏み込んで言えば普通名詞に近いものとも言えそうです。
 ここで、一応お断りしておきます。“佐賀にはない”としましたが、日本三大稲荷と言われる鹿島市の祐徳稲荷神社南側の尾根筋に「鮒越(ふなごえ)」という地名があります。地形から考えてこれはここで言う船越地名ではないと思います。また、表記が「船越」であっても鳥取県西伯郡伯耆町の船越のように本当の山奥にあるものもありますので、ここで“船越”が行なわれたわけではありません。あくまでも全国の船越という地名の中には“船越”が行なわれていたものがかなりあるのではないかというほどの意味であることをご理解下さい。また、山奥にあっても、海岸部の船越地名が移住などによって持ち込まれたものがありますので、地名の考察とは非常に難しいものです。
……………………………………………………………………

「九州の船越」以降の章では九州の船越について絞った検討をしていて、特に対馬と諫早の船越について詳述しています。船越が存在していたことを実証する立場からのとても興味深い検討がなされえいます。その中で船越地名分布と山車の分布が重なることからその関連に言及していますが、私にとっては刺激の強い論考ですので、その部分について引用させていただきます。
……………………………………………………………………
非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で“船越”を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。
……………………………………………………………………
祭の山車が「台車に乗せた舟」であるという指摘は大変刺激的で興味を掻き立てるものです。

佐原の山車

秩父の山車

古代における生活活動形態としての船越(舟の陸行)が、それが失われた後も、民俗として現代にまで伝わってきているという指摘です。
花見川流域が地峡であり、船越があったに違いないという考えを持っている私にとっては、検討の一つの糸口の近くまできたという期待感を持ちました。地形地質や考古学的資料のみならず、花見川流域の地名を仔細に調べ、民俗というジャンルから情報を引き出せば意外な事実がわかるかもしれないという期待感です。

2「船越(補稿)」古川清久、古田史学会報第70号、2005.10.07
論文「船越(補稿)」古川清久は次の構成になっています。
・はじめに
・船越は実在した
・船越の新たな展開と収束

この論文では、対馬の船越を実見して船越の実在について確信をもったことと、死者を葬地に送るために、舟に乗せて運んだこと、その場合水上を航行するだけではなく、陸上を運んだことについても述べています。

これら二つの論文に興味を刺激されて、全国の船越地名をさらに調べてみたいと思います。

2013年5月5日日曜日

抜書き 船越 (つづき)


抜書き5「船越」(島の人生 柳田國男 昭和26年)
「此は人の力ではあるまいが、長門の萩の東北に笠山といふ半島がある。昔は勿論笠島であったのであらう。僅なる平沙で主陸と接続してをつて、其地点を船越浜と言ひ内外二面の湾入部に嫁泣、夕凪の二つの小港を作って居る。船越といふ地名は諸国の海辺によくある地名で、大抵島を主陸に結び付けた頸部である。その最も著しい例は志摩国の御座岬の根の所に船越、つまり岬端を回って漕巡る労力と時間とを省く為に、船頭を多くして船を陸へ上せるのである。三河の伊良湖岬の小山とチョッポリ山との間にも船越といふ砂丘がある。大洋に面した海岸から伊勢海の方へ船を越すのである。此所も以前は島であった。」(3港と島)

山口県萩市笠山の船越
グーグルマップによる

三重県志摩市船越
グーグルマップによる

愛知県田原市の船越
グーグルマップによる

柳田國男が滞在したことのある場所の「船越」の例を説明しています。こうした事例を次々に見ると、地名として残るかどうかということは別にして、舟を陸路運ぶことにより労力を節約するという方法は、古くは極めて一般的な活動であったことが判ります。

2013年5月4日土曜日

抜書き 地峡と船越


花見川流域が縄文時代には字義どおりの地峡であり、そこが船越であったと考えます。
そうした考えを検討するための背景資料として、地峡や船越について世界や日本の事例を集めたいと思っています。(花見川流域そのものの検討はブログ「花見川流域を歩く」で行います。)

どのように事例を集め、どのように検討するのか、まだエンジンが十分にかかっていません。当面暖機運転みたいなブログ活動になりますが、ご容赦ください。

とりあえず、書斎にある図書の抜書きをつくってみて、感想をメモしながら、情報を手繰る糸口を見つけていきたいと思います。

抜書き1「地峡」(世界大百科事典、平凡社)
地峡 neckisthmus
「大陸と大陸、大陸と半島などを結ぶくびれた狭い陸地、南北アメリカ大陸を結ぶパナマ地峡、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶスエズ地峡、マレー半島のクラ地峡などが有名。その他、ギリシャのコリント地峡、ユトランド半島のキール地峡などがある。古来陸上交通の要衝であったが、運河が開かれ、あるいは計画されたりして海上交通の要所ともなっている。1869年に開かれたスエズ運河は紅海と地中海を結び、喜望峰回りのロンドン~ボンベイ間の距離を58%短縮、また1914年開通したパナマ運河は太平洋とカリブ海をつなぎ、ホーン岬回りのニューヨーク~ホノルル間の距離を50%に短縮した」(佐藤任弘)

抜書き2「地峡」(新版地学事典 地学団体研究会編 平凡社)
地峡 neckisthmus
「大陸と大陸、大陸と半島の間、二つの半島の間など二つの広い陸地の間をつなぐくびれた狭い陸地。南・北大陸をつなぐパナマ地峡などがその例。地頸(けい)ということもある。」(茂木昭夫)

抜書き12とも言葉の説明で、特段の感想はありません。ただ、ギリシャのコリント地峡については古代の船越に関する記述を思い出しましたので、次に抜書きします。

抜書き3「ギリシャコリント地峡の古代船越に関する情報」(ギリシャ案内記(下) パウサニアス著 馬場恵二訳 岩波文庫)
地峡の開鑿(第二巻の訳注)
「コリント地峡の運河開鑿を構想した古代人はコリントの僭主ペリアンドロスをはじめ、デメトリオス・ポリオルケテス、ユリウス・カイサル、カリグラ帝などの名が挙げられるが、実際に着工したのはネロ帝だけ。同帝は67年に多数の兵士や、ユダヤ人捕虜六千名を含む囚人を投入して運河建設の工事をコリント湾側(西側)から始めたが、途中挫折した。
自然改造を神に対する不敬行為とみなして否定的なパウサニアスには、ネロ帝の名前を出すことさえ穢らわしかったのであろう。運河の代わりに地峡東西を横切って陸路、船舶を運搬した軌道設備(diolkos)の敷石基盤が1956-62年の発掘で発見された。その軌道は現在のコリント運河(1881年着工、1893年開業)とほぼ同じ位置で平行しているが、西端南岸沿いの部分がもっとも観察しやすい。」
ローマ時代に軌道を整備して船を陸路運んだという事実は興味が湧きます。
diolkosWEBで検索すると例えば
に写真入りで詳しく説明(英文)があります。

次の動画(英語)は船を運んでいる想像アニメです。

コリント地峡付近の地図
 グーグルマップによる

次は日本における船越に関する抜書きです。

抜書き4「船越という地名」(海南小記 柳田國男 大正10年)
「恩納の仲泊から美里の石川まで、島の幅が此辺では僅かに三十町しか無い。大昔、神が未だ草木を以って此国を恵ませざりし頃、東海の波が西海へ打越し、西の波は又東へ越えたと伝えるのは或は此近所の事かも知れぬ。今でもサバニと称する小さな刳舟だけは、人が担いで陸の上から往来し、遠く辺土名喜屋武の岬を廻る労を避けて居る。内地の府県で船越と云ふ多くの地名は何れも曾て此方法に由って、小舟を別の海へ運んだ故跡である。島尻郡の方にも玉城村富名腰が有る。又同じ郡の佐敷村、八重山石垣島の伊原間などに、フナクヤと云ふ地名があるのは、皆この船越のことだらうと思ふ。」(14山原船)

大正10年(1921年)に柳田國男は、当時沖縄島の最もくびれたところ(30町=3270m)では刳船をかついで東岸と西岸を往来している事実を報告するとともに、全国の船越という地名の起源がこのような活動の跡であると述べています。
時代を遡れば日本の全国どこでも船越があったことを理解できます。舟をかついで陸を往来することは、移動を効率的で安全に行うために一般的に行われていたと考えます。

沖縄島の地図
グーグルマップによる

つづく