2011年7月20日水曜日

中沢新一著「愛と経済のロゴス」を読んで

            中沢新一著「愛と経済のロゴス」(講談社、2003)

 中沢新一のカイエ・ソバージュシリーズを「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」という視点から読んでみます。今回はシリーズ3冊目「愛と経済のロゴス」です。

1 諸元
著者:中沢新一
書名:愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュⅢ
発行:講談社
発行年:2003年1月10日
体裁:単行本(18.7×12.5×1.2cm)210ページ
ISBN 4-06-258260-0

2 目次
はじめに
序 章 全体性の運動としての「愛」と「経済」
第一章 交換と贈与
第二章 純粋贈与する神
第三章 増殖の秘密
第四章 埋蔵金から聖杯へ
第五章 最後のコルヌコピア
第六章 マルクスの悦楽
第七章 精霊と資本
終 章 荒廃国からの脱出
索 引

3 「はじめに」抜粋
 この書が野心作であるという著者宣言を少し長くなりますが、抜粋引用します。
贈与を立脚点にすえて、経済学と社会学の全体系を書き直すという野心を、一九二〇年代のマルセル・モースがはじめて抱いた。彼が書いた『贈与論』は、経済も政治も倫理も美や善の意識をも包み込む『全体的社会事実』を深層で突き動かしているのが、合理的な経済活動を可能にする交換の原理ではなく、『たましい』の活動を巻きこみながら進められていく贈与の原理のうちにあることを発見することによって、この野心の実現にむけて、巨大な一歩を踏み出した。しかし、モースは最終的にそれに失敗してしまう。モースは贈与に対する返礼(反対給付〉が義務とされることによって、贈与の環(サイクル)が実現されると考えたのだが、そのおかげで、贈与と交換の原理上の区別がなくなってしまったからである。
 ところが私たちは、贈与の極限に純粋贈与という異質な原理が出現することを、見いだしたのである。いっさいの見返りを求めない贈与、記憶をもたない贈与、経済的サイクルとしての贈与の環(サイクル)を逸脱していく贈与、それを純粋贈与という創造的概念に鍛えあげることによって、私たちはモースが座礁した地点を跳躍台にして、彼の野心の実現に向かって、新しいジャンプを試みたのである。
 すると興味深いことに、経済学で言われる『価値の増殖』にたいして、一貫した理解を示すことができるようになった。そればかりか、贈与を立脚点にすえることで見えてくる経済活動のトポロジーと、精神分析学の示す心のトポロジーとが、基本的に同型であることもあきらかになってくるのであ る。いわばモースとマルクスとラカンをひとつに結ぶ試みとも言えるこの探求をとおして私は、サン・シモン的なアソシエーション社会主義の信奉者であったモースと同じように、グローバル資本主義の彼方に出現すべき人類の社会形態についての、ひとつの明確な展望を手に入れたいと願ったのである。
 それを実現していくためには、どうしてもモースの思考にマルクスと(ラカンによる)フロイトの思考を突入させる必要があった。社会学的思考に欠けているものがあるとすれと、それはモノ(Ding)である。モノは贈与や交換や権力や知の円滑な流れをつくりだすすべての『環(サイクル)』に、いわば垂直方向から侵入して、サイクルを断ち切ったり、逸脱させたり、途方にくれさせたりすることで、『環』の外に別の実在が動いていることを、人々に実感させる力をもっているのである。
 モースの贈与論に、このモノの次元に属する実在を導き入れる必要を力説したのは、『モース著作集への序文』を書いたレヴィ=ストロースだった。彼はそれを『浮遊するシニフィアン』と呼んで、体系の内部を流通している記号や価値と区別しようとした。この『浮遊するシニフィアン』という概念こそ、マルクスが資本主義の生命力である剰余価値の発生の現場で取り抑えようとした、『資本の増殖』の秘密の核心に触れるものであり、またそれは精神分析学が『悦楽』の発生の問題としてとりだしてきたものと、同じ構造をもっていることに、私は気づいた。二〇世紀後半の旺盛な知的活動が、それぞれの領域で見いだしてきたこれら『モノの侵入によって変化をとげた概念』を、ひとつの全体性のうちにシンセサイズすることによって、私は今世紀の知が発達させるべき問題の領域の、ごく大雑把な見取り図を描きだそうと試みた。

4 感想
●中沢新一は、人の経済の全体現象を交換、贈与、絶対贈与の3つのキーワードで説明しています。そのうち絶対贈与の概念はモースにはないもので、この書における鍵となる概念です。絶対贈与の例としてポトラッチなどが出てきます。
●絶対贈与の概念の説明はいろいろな側面から行われています。最初は全くちんぷんかんぷんでしたが、突然次のようなこととして自分なりに理解しました。
絶対贈与の増殖の例…(魔術を行うことにより)狩猟動物が増えること
絶対贈与の消滅の例…(予期しない自然災害で)財産や資源・命を失うこと
つまり、神様のしたこととして理解することしかできない(人に返礼をしたり、返礼を求めたりできない)贈与(破壊)。
●この書では、現在の資本主義の原理がキリスト教を背景にして成立し、その技術思想が自然を挑発し暴き、自然を開発するものであるから、自然が沈黙している、地球が荒廃していると論じています。資本主義の原理がキリスト教を背景に生まれたこと、技術思想が自然挑発型であることなどは中沢新一「モノとの同盟」で既に読んでいましたので概略の理解は(どうにかこうにか)できました。
●洞窟内の男の形而上学的思考(密教)と陽光の差し込む場(顕教)との対比、コルヌコピア、ラカン、マルクス、クリスマスなどの話も示唆に富み、楽しみました。
●著者はこの書の最後で次のように述べています。
人間のおこなう行為としての『経済』の現象が、交換の原理を中心に組織されているのではなく、贈与と純粋贈与というほかの二つの原理としっかり結びあった、全体性をもった運動として描かれなければならない、ということに気づかされました。そして、交換の原理による自然(それは人間の内面の自然であると同時に、人間の外にある自然のことをも指しています) への挑発的な口ぶりの語りかけが続いていくうちに、自然が恐ろしい沈黙に入ってしまう理由を、はっきりと見届けることができました。贈与の原理の破壊が、それをもたらしているのです。
 二一世紀の『人間の学問』では、いまある形の経済学をいまだ未知に属するこのような全体性の一部分として組み込んだ、より拡大された新しい『経済学』というものを創造していかなくてはならないと思います。

 私の問題意識「古代社会において人類が開発した思考方法が、現代社会改善のために、再発見・再活用する意義があるのか?」から見ると、交換の原理から贈与、絶対贈与の原理に軸足を移した社会にするという方向はとても魅力的でかつ現実に即したものに感じます。人類社会の原理を変更するという提案です。その具体策に関連する考察に遭遇したいと思います。

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