2011年9月29日木曜日

一神教純正ドグマからの逸脱

緑の資本論10 一神教純正ドグマからの逸脱


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
五 マルクスの「聖霊」
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
ア 要約
[マルクスの貨幣増殖の考え 貨幣以前の商品による原初形態]
●上着(金モールがあり、素敵なデザインで消費の欲望を誘う製品)
リンネル(ごわごわした安価な素材)

●上着はリンネルの価値形態となり、上着がリンネルの等価物になる。(使用価値は上着とリンネルは感覚的に違うが、価値としてリンネルは上着に等しくなる。例20ヤールのリンネル=1着の上着)(上着は他の商品の等価物として役立っているから等価形態にある。)
リンネルは自分の現物形態と違う価値形態を受け取る。(相対的価値形態)

●リンネル(商品)は相対的価値形態においては、いつも自分の価値を表現される地位にある。
等価形態である(欲望をさそう製品である)上着は、他の商品の相対的価値形態を表現する地位にある。

●マルクスによれば、アウラをまとった等価価値としての上着を前に、田舎娘リンネルはその魅惑的な姿の中に、素朴なリンネル族の美しい価値魂を発見して、20ヤールという数量をもって、自分の価値を表現されることを欲したのである。上着の方から進んで関係して与えた等式がこれではない。
他の村娘(他の商品)も、上着がそれ自身でリンネルと交換する能力を備えていると思い込み、上着はつぎつぎと他の村娘と関係を結んでいくようになる。
これはいつでも商品を買うことができる特殊な商品、つまり貨幣の萌芽を示している。

●上着のような等価形態をとる商品(つまり後の貨幣)は相対的価値形態であるリンネルの価値を表現するシンフィアンの地位に立つ。
リンネルのような相対的価値形態をとる商品は、等価形態をとる商品(つまり後の貨幣)によって表現されるシニフィエの地位に立つ。

●シニフィアン商品(後に貨幣として結晶)はシニフィエ商品に対して流動的アウラを帯び、それにシニフィエ商品が愛を抱き、それによって表現されることを意思した。
こうしたマルクスの説明で使われるアウラ、流動性、愛、意思、欲望などの性質はスコラ学が「聖霊」の概念のうちに見出そうとしたものである。

●「20ヤールのリンネル=一着の上着」に象徴される商品同士の出会いとおたがいの値踏みの過程には、すでにしてシニフィアンとシニフィエの不均衡がおこり、流動性や浮遊性をはらんだシニフィアン商品はそれ自体のなかに、すでにして価値増殖ということがおこるために必要な能力がそなわっている。

●貨幣は特殊な商品として、すでにして自らのうちに増殖性への秘められた意志を潜在させており、その意志はシニフィアンとしての商品に内在する流動性、浮遊性によって、すでに準備されてあった。

[聖霊]
●「聖霊」が激しい発動をおこなうとき、シニフィアンはシニフィエとの結びつきを解かれて自由に浮遊しはじめ、この浮遊シニフィアンが想像界と交わって増殖をおこなうのであった。このような過程の萌芽が、貨幣-商品-貨幣-…-流動体-結晶体-流動体-…の変態のうちに、すでに完全に準備されてある。こうして、資本主義における価値形態論の全領域が、「聖霊」の息吹に貫かれていることを、私たちは確認することができるのである。

●資本主義の普遍性と今日言われていることは、キリスト教のおこなった(イスラーム的なタウヒードの観点からすると)一神教の純正のドグマからの逸脱から発生した経済的現実なのである。その証拠は、「聖霊」の働きにかかわる記号論的思考が、新石器時代以来の「人類的」伝統に根ざしていることのうちにある。「聖霊」はまことに古い来歴をもっているのだ。

イ 感想
●貨幣として結晶していくような等価価値商品と、それによって表現されることを意思した相対価値商品の関係から、貨幣が生まれる過程と、貨幣が増殖する過程の双方がよくわかりました。

●貨幣が生まれ、増殖する過程には、マルクスの説明から、聖霊の概念とパラレルな人の思考(アウラ、流動性、愛、意思、欲望)が潜んでいると中沢新一は指摘しています。

●この節の結論部分を次の要約のように理解しました。
マルクスによって貨幣の増殖が聖霊と同じ概念で説明されていて、その貨幣の増殖を核心とする資本主義が現在世界を覆っている。
聖霊の概念を取り入れるということは、一神教を逸脱したものであるが、一神教の内部構造に生命的なプロセスをセットする素晴らしい効果を持つ。
イスラームにとってそれは一神教発生の人類的意義を危うくする。
聖霊は新石器時代以来の人類的伝統に根ざしている。

(つづく)

2011年9月28日水曜日

「三位一体」のドグマ

緑の資本論9 「三位一体」のドグマ


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

……………………………………………………………………
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
ア 要約
●マルクスが古典派経済学の行った資本の理解に「三位一体」の論理構造が潜伏していることを明瞭に直観していた。(その理由1マルクスが助けを求めたヘーゲル哲学がドイツ神学の影響を受けていること。スコラ経済理論が重商主義、重農主義からアダムスミスまでに直接的影響を与えていること。)

●このような古典派経済学の根底的批判をめざしたはずの「資本論」が、「三位一体論」の思考様式を用いて、資本増殖の本質を分析した。

●マルクスは剰余価値の形成を「三位一体」の構造とのパラレルとして思考した。(「坊主的概念」を資本の科学的分析の核心部分で放棄しなかった。)

●マルクスは商品に内在する「聖霊」的な活動を、除去することのできないものとして、それを出発点に資本の分析を開始している。循環論のおちいり、資本の解明によっても、資本主義の「外部」に脱出することは不可能となる。

●イスラームなら、その実験から、商品に内在する「聖霊」の働きを除去することは可能。

●マルクスは「聖霊」の増殖的活動を資本解明の基礎に据えて、それでトラウマを被った。

●「三位一体」のドグマこそ、一神教の形成の「形而上学革命」に深く突き刺さった後戻り不能なトラウマだ。

イ 感想
●資本論の核心的思考にキリスト教の「三位一体」の思考が用いられていることを初めて知りました。

●マルクスもキリスト教世界の思考から完全に自由になってはいなかったということだと思います。

●これにより、中沢新一は資本増殖の思考では、資本主義と共産主義の類縁性を指摘し、その類縁性より資本主義とイスラーム経済の差異の方が、大きいと言おうとしているように想像します。

(つづく)

2011年9月27日火曜日

中沢新一の宗教入門

待ち合わせの時間調整のため、書店内をぶらぶらして、面白そうな本を手に取ってみて、立ち読みしていました。文庫本のコーナーで、中沢新一の名前が目にはいりました。
大人の学校卒業編という文庫本です。5人の有識者が講義形式で話をして、1991年にテレビ放映したものの記録のようです。

大人の学校卒業編(静山文庫、2010.11)

中沢新一は宗教学入門という表題で4つの講義をしています。

私は、元来、宗教には興味がありませんでした。興味がないというか、反対にできればそれから避けたいと思っている嫌いなものといっていいと思います。

しかし、このブログで岩井國臣先生のテキスト「ジオパークについて」の学習を始め、芋づる式に中沢新一の書籍の読書にはまり込み、今は緑の資本論を少し詳しく読んでいることになり、いつの間にか宗教に興味が出てきてしまっています。

自分の興味の対象がこのように変化するとは、予想できませんでした。

一神教におけるキリスト教とイスラームの違いには興味を持ち出してしまっています。

さて、この文庫本を手に取ってみて、入門者用のキリスト教解説が最初に書いてあるので、興味が刺激されて、無意識的に購入してしまい読んでみました。

読み進んで、最後の話題である「スープランドの宗教学」の中で、宗教体験が生じるのは、この世界より大きな次元をもったものが、横切っていくのを体験していく時だという趣旨の説明があり、2次元居住者と3次元世界の関係を比喩として示していました。

この部分を読んでいるときに、宗教の核心部分の理解は、擬似的なものであれ、霊的な実体験がある程度必要である、あるいは過去の霊的な体験を思い出してみることが必要であると直感しました。

一般向けに理解しやすくなっているので、1時間ほどで全部を読めました。

2011年9月26日月曜日

聖霊は増殖する

緑の資本論8 聖霊は増殖する


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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四 聖霊は増殖する
ア 要約
●キリスト教的西欧では「子を産出する神」、貨幣、無限の数学、資本主義、精神分裂病的文明。これらの聞には明らかに通底するものがある。

●初期キリスト教は「聖霊」もまた、「父」「子」と並んで、神の示す格(ペルソナ)の一つである、という考えを、ドグマとして確立した。

●トマス・アクイナスらによる「三位一体論」の構築で理論化(「父」は神の本質を源泉的、原初的に持つ。「子」は「父」から産出され知恵・言葉として生まれる。「聖霊」は「父」と「子」から発出される。)

●スコラ学者は「聖霊」の本質を贈与論と生命論の言葉で語っている。(産出が生殖や相続の過程に、発出が愛や意志の行為にあらわれる。前者は遺伝情報の保存のためであり、後者は他者に向かって自己の免疫機構を解除して開いていく、愛の行為の場合のような、生命論的過程に相当する。)

●「聖霊」は贈与として、賜物として実現する。贈与を動かしていくのは、他者に対する愛の心(熱望や欲望)である。愛と欲望が両義的であるように、贈与もまた両義的である。贈与も一瞬にして報酬目当ての「聖物売買的」行為に堕落していく危険性を常に抱えている。

●キリスト教:「父」が「子」を産出し、「聖霊」がそこから発出してくる「三位一体論」を一神教記号論のベースに設定して、その構造によって、資本主義ときわめて親和的である。

●イスラーム:一神教が実現しようとした「第一次形而上学革命」の精神に忠実であろうとして、至高純粋の一神教の形態をタウヒードによって実現しようとしたイスラームは、その構造によって、資本主義とは異質な経済システムを生みだし、発達させていくことになるだろう。(イスラームのキリスト教批判は、資本主義(社会主義も含む)に対する批判となる宿命。)

イ 感想
●これまで不確かだった三位一体論の内容について理解することができました。

●聖霊は贈与として実現するが、贈与を動かしているのは愛であり、愛は両義的であり、だから贈与も報酬目当て行為に堕落する危険を抱えている。という記述に興味が湧きます。直感的に理解できます。

●聖霊とは人が普遍的に備えている思考パーツの一つであると思います。それをキリスト教は原理に取り入れてしまってので、結果世俗的に堕落した。という風に、とりあえず素人理解しておきます。

●イスラームから見るとキリスト教が一神教としての純粋性を失っているという風に写り、経済の落差を考えると、近親だからこそ、一層憎悪するみたいな感情になっている面がある。という風に9.11の背景として感じます。

(つづく)

2011年9月24日土曜日

タウヒードの思考

緑の資本論7 タウヒードの思考

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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三 タウヒード貨幣論
   2節【タウヒードの思考】
ア 要約
●イスラーム的一神教は「タウヒード」の論理に貫かれている。(タウヒードとはアラビア語で「ただ一つとする(一化する)」を意味する。)

●森羅万象この宇宙は形も色の属性も多様性にわきたっているが、そのすべての存在(あること)の存在性が「ただ一つの実体」におさまっていく。つまり唯一の神である「ただ一つの実体の表出」と理解される。逆に言えば、唯一の神アッラー(アッラーフ)こそが、森羅万象の創造主である。(ここまでの考えはユダヤ教ともキリスト教とも共通する。)

●その「ただ一つの実体」の内面が単純極まりないものである。神の「内面」に一切のトポロジー的構造化が拒絶される。唯一の神は完全なる単純実体である。

●これは「主体性のタウヒード」と呼ばれ、イスラーム神学で、アッラーフが、1本体において部分を有さず単一であり、2属性において無比であり、3行為において単独であるという3つの認識で定式化されている。

●キリスト教は唯一の「神」の内部に、「父と子と聖霊の三位一体」の構造を認め、その純粋な「関係性」をトポロジー構造として理解することができる。

●イスラームは「アッラー」にこのような単一性を冒す危険をはらんだトポロジー思考を拒絶する。

●イスラームにおいては「一」と「多」が直接的に結び合う。あらゆる存在者は「一」を直接表出し平等であり、その表出の度合いを異にしているから、同じものはなく、世界は多様性満ちている。

●イスラームの考え方では、どんな存在者も「一」と直接性において結ぼれているので、その存在者は他のどんな存在者をも表象するものではなく、一方が他方のシニフィアン[記号表現]として自由に増えたり、減ったりすることはできない「正直さ」をそなえている。

●一神教が警戒している増殖の現象がおこるときには、「一」との直接性の表出関係を失って、自由な浮遊状態に入ったシニフィアンが、歯止めをなくして数や量や強度を増やしていくのだ。こういう増殖がおこっているとき、一見すると世界は多様性を豊かにしているように見えるが、実際には豊かな多様性をはらんだものが均質化する表象のうちにとらえられ、その表象作用が増えているだけなので、多様性そのものは貧しくなっているのである。お金が増えても心は貧しくなる。これは、表象が量を増やしても、多様性は貧しくなり、それは「一」である唯一の神との直接的なつながりが貧しくなっているという事実を言い表している。

●イスラームにおけるタウヒード(一化)の思考こそ、一神教の成立という人類にとっての「第一次形而上学革命」の精神を、もっとも純粋な形で実現してきたものだと言える。

イ 感想
●同じ一神教のイスラームとキリスト教において、神の内部に構造がなく単純であるか、構造があるのかという違いを理解しました。

●神とのつながりが切れた増殖(例 利子)により金が増えても、「一」(神)とのつながりが貧しいので心は貧しくなるという思考の例示により、タウヒードの考え方の理解が進みました。

●タウヒードの考えを知り、これが(ひとつの)「信仰心」だと実感しました。タウヒードの考えにより信仰心を持てば、なにか、頑強無比の活動ができそうな感じがしてきます。

(つづく)

2011年9月22日木曜日

資本主義とイスラーム経済の差異

緑の資本論6 資本主義とイスラーム経済の差異

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
ア 要約
●イスラーム:利子(利潤)発生を倫理的禁止とし、資本主義の形成が長いことおこらなかった。(利子の発生を「分子レベル」で抑制した。)

●キリスト教世界:13世紀以降利子・利潤獲得の抑制を教会が急速に弱め、本格的な資本主義形成の道が開かれた。

●キリスト教が「金は金を生まない」(アリストテレス)という「自然主義」をもって利子・利潤に対した。(トマス・アキュナスなどの神学者一般の思考)

●この思考は400年後重農主義者にそのまま受け継がれていく。(価値を増やすのは、自然を耕作する農業だけで、神が与えたもうた「純粋な自然の贈与」が自然の増殖となって、人間にもたらされる。)

●重農主義者の思考はカトリック神学と同じ思考法である。(この世界に価値の増殖がおこるのは、ただ「神の賜物」が、経済回路を逸脱した自然と霊性における過剰分となって、「恩寵」として人間にもたらされるときだけである。)

●古典派経済学の骨格にトマス・アキュナスなどのスコラ学者の経済論が大きな影響を及ぼしている。(アダム・スミスの経済論の基礎は道徳哲学にあり、「自然法」を媒介として、滔々とスコラ経済理論が流れ込んできている。

●(以上から)西欧近代の経済的現実のなかに、スコラ哲学的に理解された一神教の構造が潜伏していることは、もはや疑いないだろう。

●ユダヤ教は増殖のアポリア[難題]を、魔術と多神教否定で乗り越えようとした。

●イスラームは利子厳禁とし、経済生活全般の実践的革新を図ろうとした。

●カトリック・キリスト教は、はじめ及び腰で反対し、次におずおずと容認し、ついには自ら生み出した鬼っ子によって大打撃を加えられた。

●資本主義推進の原理はカトリック神学の価値理論ときわめて類似の構造を持つ。(キリスト教的一神教と古典派経済学、さらには西欧における生産・流通・分配の構造そのものの間に深い本質的関係が存在しているのではないか。)

●イスラームとキリスト教、同じ一神教の二つの文明圏における、今日の「衝突」が意味するものを最大の深度で理解するためにも、この探求は重要なのである。

●イスラーム経済の貨幣論は一神教のイスラーム的理解である「タウヒード」の構造で組み立てられている。

●カトリック的貨幣論(ウスラと戦ったスコラ学、重農主義、古典派経済学、「資本論」を経て現在まで資本主義の内部で有効に作動している)は一神教のキリスト教的理解である「三位一体」の構造にもとづいて作動している。

●一神教の初期条件の違いが、一神教世界の内部に重大な差異を発生させている。(経済発展の初期段階におけるイスラームの絶対的優位、十字軍問題、近代における西欧資本主義の爆発的展開、イスラームの経済的劣勢、今日のグローバリズムの現実。)

イ 感想
●9.11テロに刺激されて、この書が生まれたということを、この節で改めて思い出しました。

●イスラームとキリスト教の増殖に対する考え方とその対応の差異が、今日のグローバリズム資本主義とイスラーム経済の劣勢を招いている。その差異を明らかにしていくことがこの書の目的であると宣言している節です。

●イスラームと西欧の経済力の違いが、一神教の(私など門外漢からみると)微細な差異に起因しているという指摘に鋭さを感じます。まるで遺伝子分析をしているような緻密な分析が歴史に加えられています。

●この小さな節だけを対象にしても、すべてのストーリーが中沢新一のオリジナルではないにしても、他の人の著作物パッチワークでは決しできない、著者の骨太な発想展開力に驚嘆します。マルクスまで登場させます。

(つづく)

2011年9月21日水曜日

キリスト教のストッパー解除

緑の資本論5 キリスト教のストッパー解除

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   3節【キリスト教のストッパー解除】
ア 要約

●キリスト教世界でも利子の否定は、原理的には事情は同じはずだった。(旧約聖書には高利を否定する記述がある。)

●12世紀ヨーロッパではウスラ(高利)を教会が禁止しようとして大論争が繰り広げられた。

●神学者の「ウスラ反対」の論陣は、イスラームが一神教的記号論で武装した徹底的「反自然主義の思考」により対抗したようなものではなく、「金は金を生まず」という「自然主義的な認識」によって対抗しようとした。

●ウスラとの戦いで、結局教会は勝利できなかった。

●スコラ学者の論調は、高利一般を断罪するのではなく、いったいどの範囲の利子付き金融なら許されて、どのあたりを超えるともはや許されなくなるかという、「公正」の理論を練り上げることに、彼らの関心が移ってきたのである

●もう一つ重要な点は、この時代に「煉獄」の概念がつくられたことだ。(天国と地獄の中間に、生前の罪を浄化して天国への門をくぐっていける資格を得る、煉獄と呼ばれる新たな緩衝地帯が設定された。これによって、高利貸たちに重くのしかかっていた心理的負担は、大いに軽減されることになった。)

●13世紀に、資本主義の草分けである未来型の商人、高利貸したちにはめられていた足かせが、「公正」の理論と「煉獄」の思想ではずされた。

●キリスト教はこのとき、資本主義に対するストッパーをおそるおそる解除しはじめたのである。

イ 感想
●同じ一神教でありながら、イスラームは徹底した一神教記号論で武装し、キリスト教は「自然的な認識」で対抗しようとしたという差異の原因について興味が湧きます。

●「公正」の理論と「煉獄」の思想で資本主義のストッパーが外されたという、マクロな視点から歴史を捉え、ポイントを単純明快に表現する論調がとてもわかりやすく感じます。

(つづく)

2011年9月20日火曜日

利子の厳禁

緑の資本論4 利子の厳禁

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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二 利子(利潤)を否定するイスラーム
2節【利子の厳禁】
ア 要約

●イスラームにとって貨幣は記号であり、象徴界と現実界を直接性において結ぶ蝶番でなければならない。貨幣は、物の代用でなければならない。売り手と買い手の間に決定的な区別は発生しないはずである。

●実際は貨幣は物に対してシニフィアン[記号表現]としての、つまりは物に対する表現者としての位置をすぐさま獲得する

●購買を売却から「遅延」させ、「物の一般的代用物(つまり流動的な自由シニフィアン)」としての貨幣をより多く獲得するようになる。

●これにより、経済的強者のみが貨幣を蓄財し、生産活動が麻痺する。

●イスラームは貨幣の魔力に抗して、想像界に対する象徴界の絶対的な優位を守るために、一種の「分子革命」をした。それは「利子の禁止」である。

●一神教的思考では、貨幣が自己増殖を起こし、増殖分が「利子」として貸し手に入ることはあってはならない。

●イスラームでは「無利子銀行」の試みをはじめ、一神教的記号論が厳密に適用されなければならないと考えられた。

イ 感想
●一神教的思考から貨幣について考察するというテーマを中沢新一の文章で初めて接し、私にとって新鮮です。

●イスラームの世界で、無利子銀行が現実にあることを、この文章ではじめて知りました。

●WEBで調べると、1950年代のパキスタンで最初に生まれ、ついでエジプトに現れ、1970年代以降潤沢なオイルマネーで世界に200以上作られているとのことです。

●無利子銀行のメインの活動は事業家に対する出資で、もともとハイリスク、ハイリターンなキャラバン交易活動に対する出資に由来するようです。

●無利子銀行が現在の世界で一定の規模を成し、成長を遂げている現実にも興味が向かっています。

(つづく)

2011年9月19日月曜日

象徴界と現実界の一致

緑の資本論3 象徴界と現実界の一致

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載しています。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
ア 要約
●一神教の原理では、象徴界(神のロゴス)と現実界は一体でなければならない。(「わたしはある。わたしはあるという者だ。」律法の書 神が自らを「ある」(現実)と呼んでいる。)

●神のロゴスに似せたものが言葉であり記号である、それは象徴界と現実界を可能な限り直接的に結び合わせるものでなければならない。

●一神教は想像界の働きに警戒的である。想像界の働きが現実界と結びついて肥大化すると、農耕社会の偶像崇拝が発生してくる。

●偶像崇拝者は象徴界と現実界の直接的な一体状態を耐え抜いて、神のロゴスを生きることができない。

●偶像崇拝的な社会は自由であることやたくさん増殖することに、大きな価値を置いてきた。そのためにそこでは、象徴界(神のロゴスであり父のロゴスであるもの)の権能を奪って、快感原則的な想像界の働きをべースにする社会を構成しようとしてきた。

●現代を特徴づける資本主義と精神分裂病という、象徴界の権能の剥奪から生ずる事態は、まさに一神教の民の間に発生し、またたくまに地球大の規模に拡大していったものだが、ただイスラームだけがこの事態を病気として診断し、一神教の思考に従うわれわれは、象徴界と現実界の直接的一致の原理を守るべきではないのか、と他の一神教の民に呼びかけていたのである。

イ 感想
●これまでの読書から、窮屈な一神教を巧みに修正したキリスト教から資本主義が発生して、様々な現代社会の問題を発生させていると理解してきました。そうした理解から、この節で述べられていることはよく理解できます。

●イスラーム(原理主義)が、一神教の大切なところを修正して繁栄しているキリスト教世界(西欧世界)を憎悪しているという図式が、この節の説明で思想面から首肯できます。

●最後の文章に「精神分裂病」がでて来るので、前後の文章にその説明が無いので、唐突感があります。

(つづく)

2011年9月18日日曜日

一神教の成立

緑の資本論2 一神教の成立

この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載します。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   1節【魔術的思考の時代】
   2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
   1節【象徴界と現実界の一致】
   2節【利子の厳禁】
   3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
   1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
   2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
   1節【「三位一体」のドグマ】
   2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
   3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

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一 一神教をめぐる認知論的レッスン
   2節【一神教の成立】
ア 要約
●一神教の出現によって、魔術的思考にじつに手強い敵対者が現れた。

●神は「無法者の言葉」で書かれた律法を刻んだ石板をモーセに与えた。

●イスラエルの民は国家から逃亡したハベル(逃亡奴隷やならず者)たちの形成する、自然によるのではない律法による新しい共同体だった。

●ヤハヴェの名をもった超越的知性は、今後人間(この時点では、彼が選んだ少数のハベルたちだけ)は自らの本質をなす流動的知性の持つ特徴のうち、想像界の働きに直結するイメージやそのメタモルフオーシスの強度と魅力を愛してはならない、と命令している。(その像を拝んではならない。その神々を愛したら、君を子々孫々まで妬む。)

●モーセはヤハヴェにつかない者三千人を虐殺した。

●一神教は流動的知性の中に変化も生成もしない純然強度たる「一(いつ)」を発見して、世界と自己の認識に新しい段階を画することになったが、その「ハベル的」(逃亡奴隷やならず者的)企画を実現するためには、魔術的思考のうるわしい花々を蹴散らしてしまう必要があった。

… … … … …
●ここで筆者はタリバンのバーミヤン仏像破壊について、それが魔術的思考への惑溺に反対する明確な一つの思想に根ざしているとし、それをほとんどの人が忘れたふりをしていると述べています。

●また、「私たちの科学はいまだかつて、魔術的思考を生活の諸領域で消滅させることに成功したためしがない。しかもそれは、資本主義化した私たちの経済生活の基底で、いままでにないほどの強度を持って活発な活動を続けている。この点においては、一神教の望みは実現しなかったのである。」と述べています。
… … … … …

●モーセは装身具の金属を溶かして、流動体にし、それで子牛の像をつくり、拝んだハベルの民に怒り、その像を砕いて水に撒き、その水を無理やりその民に呑ませた。モーセは人々の宗教行為の中に潜んでいる「貨幣論」的な臭いに敏感に反応し、これを拒絶した。

●筆者はこのモーセの体験の残響を、ケインズの言葉(未来への確実な保証がないとき、価値物を貨幣のような流動体として貯め、その流動体のなかから利子[増殖分]を備えた価値を期待する。)に聞き取ることができると述べています。

●そこから、一神教の背後には一つの「経済学批判」が潜んでいると述べています。(偶像の神々は想像界によって育まれ、魔術的思考を温床として、いずれはそこに増殖する貨幣をめぐる資本主義の思考を成長させていくだろう。はじまりにおける一神教の戦いは、このような人類の未来にまで影響を及ぼすにちがいない根源的な「悪」に関わりを持っている。)

●しかし、今日ではもはやイスラームの原点への回帰をめざす人々だけが、そのことを意識しているだけになってしまった。

イ 感想
●一神教は流動的知性の中に変化も生成もしない純然強度たる「一(いつ)」を発見した。という文章の意味がこの節で説明されるハベルやタリバンの例からだんだんと理解が深まります。

●中沢新一がモーセの行動に「貨幣論」的な臭いに敏感に反応したという解説を、ケインズの学説を引用しながらしています。そうした論の先人の展開はあると思いますが、そうした論を引用ではない文章で表現できる中沢新一の知識や論理力に感心しました。

●一神教のなかでも、イスラーム原理主義者だけが、「悪」=「偶像の神々が魔術的思考を温床とし、増殖する貨幣をめぐる資本主義の思考を成長させる」を意識しているという最後の文章は、私の一神教についての現状理解を深めました。

(つづく)

2011年9月16日金曜日

魔術的思考の時代

緑の資本論1 魔術的思考の時代


この記事では、中沢新一著「緑の資本論-イスラームのために」を扱っています。
以下の目次に従って、順次その要約と感想を記事として掲載します。

緑の資本論-イスラームのために 目次
一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
2節【一神教の成立】
二 利子(利潤)を否定するイスラーム
1節【象徴界と現実界の一致】
2節【利子の厳禁】
3節【キリスト教のストッパー解除】
三 タウヒード貨幣論
1節【資本主義とイスラーム経済の差異】
2節【タウヒードの思考】
四 聖霊は増殖する
五 マルクスの「聖霊」
1節【「三位一体」のドグマ】
2節【一神教純正ドグマからの逸脱】
3節【クリスマスとラマダーン】
エピローグ スークにて

(*印で区分されているところを節とし、小見出しは当方で付けました。)

書籍「緑の資本論」の紹介はこのブログの5月27日記事「中沢新一著『緑の資本論』紹介」をご覧ください。

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一 一神教をめぐる認知論的レッスン
1節【魔術的思考の時代】
ア 要約
●一神教は自己増殖をおこなうものに対してつねづね警戒をおこたらない。特にユダヤ教とイスラームで著しい。

●ユダヤ教は初期の信仰が発達するさい、農耕民に囲まれていたことが、自己増殖するものに警戒心を育てた。(農耕民は魔術性を特徴とする豊穣の神々を祀っていた。農業と動物の家畜化により国家が生まれ、大帝国が成長した。人間の王は自然の豊穣の力を持つためには、動物の王と同格にならなければならず、動物と人間が合体したハイブリッドな神々が生まれた。こうした神々を崇拝し、それと一体となることで、国家権力にそなわった「超越性」を誇示しようとした。)

●この社会で奴隷であったユダヤ人は想像界で働く「超越性」を、根底から否定し去ろうと試みた。

●モーセの前に出現した神は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と言った。自分は「ヤハヴェ」という名前を告げた。(生成し、変化し、増殖をおこし、メタモルフォーシス(変身)をおこなう神でなく、「ある」としか言わない、いっさいのイメージを拒否し、名前だけをもった新しい神が出現した。)

●一神教が生まれても人類の生物的進化はないが、フォーカスの微小な移動がおこり、そこから「霊的」飛躍が実現された。
「自分たちの存在を特徴づけている流動的知性の働きの内部ないし奥に、変化しないもの、生成しないもの、増えないもの、減らないもの、条件づけられないもの、限界づけられないものを見出し、そこに横断性や変容性や増殖性よりもずっと根源的な「超越」のあり方を発見して、これを「一(いつ)」と言った。こうして人間は、流動的知性の内部にいっそう深く踏み込んでいくことになった。」

イ 感想
●動物の頭と人間の体をしたエジプトの神の意味がよくわかりました。

●そうした神々が信仰されていた大帝国で、抑圧されていたユダヤ人に一神教が生まれたという歴史の必然性を感じさせるストーリーも理解できました。

●想像界で働く「超越性」を根底から否定し、ずっと根源的な「超越」のあり方を発見して「一(いつ)」と言ったという部分の理解がわかったようで、わからないようで…。頭では分かっているが、体感レベルでしっくりこない状況です。肝心の部分についてさらに学習を継続したいと思います。
(つづく)

2011年9月15日木曜日

狂牛病とテロが呼び覚ますもの

中沢新一著「圧倒的な非対称」3 狂牛病とテロが呼び覚ますもの

この記事では、中沢新一著「緑の資本論」収録論文「圧倒的な非対称」の3節を扱っています。
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3節【狂牛病とテロが呼び覚ますもの】

ア 要約
●世界は「荒廃国(Waste Land)」の様相を呈している。(エコノミーとコミュニケーションが閉ざされ、豊かなものの流動が凍結された世界)

●世界の荒廃化に立ち向かうキリスト教の戦略は「贈与の行為が世界を荒廃から救い出す」思想であった。(キリストが自らの死をサクリファイス[生贄]する。死の贈与が贈り届けられ、神はそれに応えて愛の流動を贈るという思想。)

●テロの背後にもよく似た贈与論的思考がある。(自分たちは一方的に奪われ、他方は反映している非対称を打ち破るために、自分と相手をもろともの死のサクリファイス、どこにも贈り届けられることのない死の贈与に巻き込もうとする。非対称をつくりだしている全機構を、もろとも破壊したいという欲望。)

●イエスの十字架刑が象徴するもの(キリスト教)と、テロ行為(イスラム原理主義者)とは鏡に映したような反転像。(自分を憎んでいるものによってイエスは死ぬ。テロリストは自分が憎んでいるものに死をもたらそうとするが、同時に自分も死ぬ。イエスは愛の流動が発生するエコノミーの回路を開こうとしている。テロの行為は愛の発生の可能性を決定的に閉ざし、憎しみを永続させる。)

●十字架もテロも圧倒的な非対称の破壊を目指しながら、その目的実現は不可能だ。(十字架では神と人の間に愛のエコノミーは発生するが、その流動し始めた愛を神ではなく異教徒や「貧困な世界」に生きる人間や動物に注いでいこうとすると、ニーチェのいう「贈与の一撃」となり思い負債の感情を相手の心につくりだし、つまり愛は偽善に変貌しやすい。テロ行為も繁栄を誇る相手に痛撃を与えることはできるが、双方にもたらされるものは荒廃のみである。)

●つまり、非対称を破壊しようとする一神教的戦略は、いずれの場合も身動きのつかないジレンマに陥ってしまう。

●対称性社会の人々には、結婚による異種族の結びつきが、圧倒的な優位性のために無神経になった人間の心に重要は変化をもたらすという思想、広く支持されてきた。(動物と人間の結婚をテーマとした神話。)

●日本刀という新技術がもたらされたシベリアで対称性が破壊され、人間と熊が戦い、双方が死んでしまう神話が残っている。この神話は極めて暗示的である。「富んだ世界」と「貧困な世界」の住民が死にものぐるいの戦いを起こしても、そのときには両方が死んでいく。たとえ一方が勝利しても、世界には晴れやかな流動は帰ってこない。

●人間が非対称の非を悟り、人間と動物との間に対称性を回復していく努力をおこなうときだけ、世界にはふたたび交通と流動が取り戻されるだろう。

●狂牛病とテロが、対称性の知性をもういちど私たちの中に呼び覚まそうとしている。

イ 感想
●圧倒的非対称の解決に一神教的戦略が役立たないことは納得できます。ニーチェの「贈与の一撃」についてはいつか詳しく調べてみたいと思います。

●人と動物との非対称を解決するところまで遡らなければ、9.11テロの解決はないということだと思います。中沢新一の本をいくつか読んで、それはそうだとは思いますが、重たすぎる感じは残ります。中途半端な理解から脱却できれば、重たい感じはとれるかもしれません。

●狂牛病なり、9.11テロなり、それを考えるとき、どうしたら解決できるのか?という現実問題解決の視点で、私は考えます。おそらくほとんどの人がそうだと思います。ところが、中沢新一はそういう発想ではなく、その問題解決に必要な思考回路(思考ツール)を探しているのだと思います。思想家ですから当然と言えば当然です。その差異に少しずつ気がつきだしました。
(おわり)

2011年9月14日水曜日

狂牛病とテロの病根は同じ

中沢新一著「圧倒的な非対称」2 狂牛病とテロの病根は同じ


この記事では、中沢新一著「緑の資本論」収録論文「圧倒的な非対称」の2節を扱っています。
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2節【狂牛病とテロの病根は同じ】

ア 要約
●対称性の保たれている社会
・人間の方が技術において動物に優れていたことは間違いない。
・現実を支配する非対称のつくりだす罪を、思考によって解決しようという努力が、たえまなく試みられてきた。
・例 アイヌをはじめとする多くの狩猟民の間に見いだされる思想。「かつて動物は人間とおなじことばをしゃべり、結婚もおこない、たがいを兄弟とも親子とも認めあう仲間同士だったのである。時々動物が毛皮や肉をお土産に山を下りてきて、狩人が仕留める。人間はこれら動物の霊に、精一杯のもてなしをする。動物の霊は満足して霊の世界に戻っていく。」

●現代の圧倒的な非対称社会
・動物の家畜化が始まって、人間と動物の間に圧倒的な非対称ができた。
・人間は牛たちに同類の脳や内臓を飼料として与え、草食動物の牛にカンニバルの風習を強いた結果、狂牛病が発生し、食品産業の土台を揺るがす事態が発生した。
・大規模なテロの一撃が加えられたような印象さえ受ける。

・こう考えてみると、狂牛病とテロは今日の文明の同じ病根から生じた、類似した構造を持つ病理であることがわかる。

・牛たちの一括処分やテロリストの抹殺も事態対処法の一つであるが、有効期限はきわめて短い。同じ病根から別の形をとった狂牛病、報復のテロが以前にもまして悲惨な形で行われるにちがいない。


イ 感想
●中沢新一に狂牛病とテロが同じ病根から生じた、同じ病理だと指摘されると、これまで気がつかなかった真実が暴かれたような感じとなり、一種恐ろしさを感じます。

●中沢新一の思考の根幹には、非対称の現実とあるべき対称の落差を思想によって埋めようという戦略があるように直感します。非対称の現実を対称に変更するという実務的政策的発想から思考が出発しているわけではないように感じます。
(つづく)

2011年9月13日火曜日

圧倒的な非対称とテロリズム

中沢新一著「圧倒的な非対称」1 圧倒的な非対称とテロリズム


書籍としての「緑の資本論」紹介はこのブログの5月27日記事でしました。
またそこに収録されてている「モノとの同盟」は5月29日記事(中沢新一「モノとの同盟」読後の感想1同2同3)で紹介しました。

ここでは書籍「緑の資本論」に収録されている論文「圧倒的な非対称-テロと狂牛病について」の感想をメモします。

論文「圧倒的な非対称-テロと狂牛病について」は*印で全体が3節に区分されています。
当方で勝手に次の小見出しをつけ、このブログの記事とします。
1節【圧倒的な非対称とテロリズム】
2節【狂牛病とテロの病根は同じ】
3節【狂牛病とテロが呼び覚ますもの】

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1節【圧倒的な非対称とテロリズム】

ア 要約
●貧困な世界と富んだ世界の圧倒的な非対称性がテロを招き寄せている。

●この圧倒的は非対称が生み出す絶望とそれからの脱却について、時代に先駆けて宮沢賢治が思考した。
宮沢賢治は人間の世界の非対称関係の根源的な原型が人間と野生動物の関係であると考えた。人間が火器を手にしてから、弓矢しか手にしていなかったときにかろうじて実現していた対称的関係が生まれえなくなった。近代の技術を身につけた人間が「富んだ世界」を享受し、野生動物は「貧困な世界」を生きなければならない。
宮沢賢治はこの状況を小説「氷河鼠の毛皮」に表現し、非対称を告発する動物が、人間に対するテロを実行するという題材に取り組み、非対称性の難問からの脱出を思考した。

●「夢や言い間違いを通して、抑圧されていた無意識が、強固を誇っていたはずの自我の内部に吹き上がってくるように、『貧困な世界』の意志はテロを通して『富んだ世界』の中枢に吹きつけてくるだろう。年中目覚めてばかりいる文明は、柔軟性を欠いてかたくなだ。たくさんの夢を見ること、たくさんの言い間違いをすすんでおこなうことが、文明にも必要なのである。それによって自我と無意識の問に通路が聞かれ、心の内部に対称性への変化が生まれるように、文明を構成する力の配置にも変化が生ずるだろう。テロリズムの悪夢は、私たちにそのことを気づかせる激痛をはらんだ覚醒の一撃ともなりうる。」

イ 感想
●引用はしませんでしたが、貧困な世界と富んだ世界の圧倒的な非対称性が9.11などのテロを招き寄せている様の記述は説得力あるものです。
●非対称の原型が人間と野生動物の関係にあるという視点が、おそらく著者に特有で独創性を感じます。哲学的な深さを感じ取るとことができます。テロと狂牛病を同じ文明病として扱うことになります。
●宮沢賢治の問題意識の深さに改めて気が付きました。
●9.11テロの意義を、意識と無意識の関係の中における「夢、言い間違い」に喩えて、現代文明に必要なものとし、それによって対称性への変化が生ずることを述べています。おそらく、読者に「著者はテロを擁護している」と誤解されないための最大限の表現配慮をした文章だと感じました。私は著者の言う通りだと思います。
(つづく)