小林達雄著「縄文人の世界」(朝日選書、1996)
テキスト「ジオパークについて」の「6新しい文明の原理、共生」の参考引用資料である小林達雄著「縄文の思考」を以前に記事で紹介しましたが、その著者の代表書である「縄文人の世界」を読んでみたくなりましたので紹介します。
1 諸元
著者:小林達雄
書名:縄文人の世界
発行:朝日新聞社
発行年月日:1996年7月25日
体裁:新書本(18.8×12.7×1.3cm)227ページ
ISBN-4: 02-259657-0
2 目次
まえがき―縄文との対話を
第1章 縄文革命の始まり
第2章 縄文土器は語る
第3章 縄文のクニグニ
第4章 縄文姿勢方針―多種多様な食利用
第5章 集落と社会
第6章 精神世界を探る
第7章 縄文人の心象
あとがき
3 「まえがき」抜粋
著者は「まえがき」で、縄文における栽培が多種多様の資源を分け隔てなく利用して安定を図るという方針に沿った一要素であり、弥生時代以降の農耕が本当に縄文姿勢方針に優るものであるかどうか疑問を投げかけています。また縄文文化の現代的評価が現代に表面化しつつある課題を解決する緒が見えてくるに違いないと述べています。この本で著者が一番言いたいことは、この点であると思いますので、その部分を抜粋しました。
(前略)
「縄文文化は、狩猟・漁撈・採集経済を基盤としており、農耕経済への前進の展望を欠く、まさに停滞的な文化であるとされてきた。それにもかかわらず、研究の進捗につれて、定着的なムラや豊かな物質文化の実態が明らかにされた。すると、これほどのレベルは到底、狩猟採集民ごときに達成されるものではなかろう。すでに農耕を始めていたに違いない。この考えは、とりわけ前向きの姿勢をとる研究者の代表的な仮説へと膨らんでいき、その証拠固めが始まった。たしかに栽培していたと思われるヒョウタンやエゴマ、リヨクトウその他が数えあげられ、やはり農耕は行われていた、縄文はそんなに遅れたものではなかったのだ、と胸をなで下ろすのだった。わが日本の縄文の面白は保たれた、というわけだ。
しかし、栽培と農耕を混同してはならない。農耕は、いくつかの要素をもち、その組み合わせによって独自の農耕体系を備えたものである。つまり、少数の特定の栽培作物に時間、人手を投入して増収を図る。そして増収の目論見を効率よく成就できるような社会的な仕組みが組織される。さらに農地の拡大を指向する過程で集団間の戦争を惹起し、やがて地域的統合から国家の形成へと発展する。縄文における栽培は、こうした農耕コンプレックス(複合体)と異なり、多種多様な資源を分け隔でなく利用して安定を図るという方針(私はこれを『縄文姿勢方針』と呼んでいるが)に沿った一要素なのであり、弥生時代以降の農耕姿勢方針とは真っ向から対立する。農耕が本当に縄文姿勢方針に優るものかどうか、人類史あるいは自然と人間とのかかわりの観点から真剣に検討する必要がある。
そのためにも、縄文文化の衣食住を詳細に知ることで、知的満足を得るというだけにとどまらず、そうした縄文文化の事柄のそれぞれがもつ現代的な意義を探り、評価に取り組まねばならない。それによって、初めて私たちが身をおく現代に表面化しつつある課題を解決する緒が見えてくるに違いない。いま、まさに縄文との対話が必要とされているのである。」
4 私のメモ
テキスト「ジオパークについて」では小林達雄「縄文の思考」について、ハラ、ムラ、イエなどの空間的概念、縄文人の生態系的調和を崩さない生き方「縄文姿勢方針」などに着目して引用・参考にしています。このような概念や生き方についてより深く知るために芋づる式にこの「縄文人の世界」を読み始めました。
2000年に発覚した旧石器の捏造事件前の著作であるため、縄文に先立つ旧石器時代の記述には訂正しなければならない部分もあるようですが、それはこの本の価値をいささかも低めるものではないと思います。
私の趣味ブログ「花見川流域を歩く」でも花見川流域の縄文時代に興味が生まれつつあります。例えば、地名について、花見川の「花見」や近傍地名の「花島」、「亥鼻」、「花輪」などの「ハナ」は縄文時代の「アイヌの言葉」で「鼻」「端」と同じ意味であるなどと戦前の柳田國男の著作(「地名の研究」)を参考にした記事を書きました。(ブログ「花見川流域を歩く」花見川の語源、花見川の語源2)しかし、柳田國男の時代から較べると現代では縄文語、縄文語を話す縄文人、縄文人とアイヌとの関わりなど、縄文文化にかかわる知識が大幅に増えていると思います。小林達雄の著書を導入として縄文時代の文化に関する情報を積極的に仕入れたいと思っています。
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