2013年5月4日土曜日

抜書き 地峡と船越


花見川流域が縄文時代には字義どおりの地峡であり、そこが船越であったと考えます。
そうした考えを検討するための背景資料として、地峡や船越について世界や日本の事例を集めたいと思っています。(花見川流域そのものの検討はブログ「花見川流域を歩く」で行います。)

どのように事例を集め、どのように検討するのか、まだエンジンが十分にかかっていません。当面暖機運転みたいなブログ活動になりますが、ご容赦ください。

とりあえず、書斎にある図書の抜書きをつくってみて、感想をメモしながら、情報を手繰る糸口を見つけていきたいと思います。

抜書き1「地峡」(世界大百科事典、平凡社)
地峡 neckisthmus
「大陸と大陸、大陸と半島などを結ぶくびれた狭い陸地、南北アメリカ大陸を結ぶパナマ地峡、ユーラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶスエズ地峡、マレー半島のクラ地峡などが有名。その他、ギリシャのコリント地峡、ユトランド半島のキール地峡などがある。古来陸上交通の要衝であったが、運河が開かれ、あるいは計画されたりして海上交通の要所ともなっている。1869年に開かれたスエズ運河は紅海と地中海を結び、喜望峰回りのロンドン~ボンベイ間の距離を58%短縮、また1914年開通したパナマ運河は太平洋とカリブ海をつなぎ、ホーン岬回りのニューヨーク~ホノルル間の距離を50%に短縮した」(佐藤任弘)

抜書き2「地峡」(新版地学事典 地学団体研究会編 平凡社)
地峡 neckisthmus
「大陸と大陸、大陸と半島の間、二つの半島の間など二つの広い陸地の間をつなぐくびれた狭い陸地。南・北大陸をつなぐパナマ地峡などがその例。地頸(けい)ということもある。」(茂木昭夫)

抜書き12とも言葉の説明で、特段の感想はありません。ただ、ギリシャのコリント地峡については古代の船越に関する記述を思い出しましたので、次に抜書きします。

抜書き3「ギリシャコリント地峡の古代船越に関する情報」(ギリシャ案内記(下) パウサニアス著 馬場恵二訳 岩波文庫)
地峡の開鑿(第二巻の訳注)
「コリント地峡の運河開鑿を構想した古代人はコリントの僭主ペリアンドロスをはじめ、デメトリオス・ポリオルケテス、ユリウス・カイサル、カリグラ帝などの名が挙げられるが、実際に着工したのはネロ帝だけ。同帝は67年に多数の兵士や、ユダヤ人捕虜六千名を含む囚人を投入して運河建設の工事をコリント湾側(西側)から始めたが、途中挫折した。
自然改造を神に対する不敬行為とみなして否定的なパウサニアスには、ネロ帝の名前を出すことさえ穢らわしかったのであろう。運河の代わりに地峡東西を横切って陸路、船舶を運搬した軌道設備(diolkos)の敷石基盤が1956-62年の発掘で発見された。その軌道は現在のコリント運河(1881年着工、1893年開業)とほぼ同じ位置で平行しているが、西端南岸沿いの部分がもっとも観察しやすい。」
ローマ時代に軌道を整備して船を陸路運んだという事実は興味が湧きます。
diolkosWEBで検索すると例えば
に写真入りで詳しく説明(英文)があります。

次の動画(英語)は船を運んでいる想像アニメです。

コリント地峡付近の地図
 グーグルマップによる

次は日本における船越に関する抜書きです。

抜書き4「船越という地名」(海南小記 柳田國男 大正10年)
「恩納の仲泊から美里の石川まで、島の幅が此辺では僅かに三十町しか無い。大昔、神が未だ草木を以って此国を恵ませざりし頃、東海の波が西海へ打越し、西の波は又東へ越えたと伝えるのは或は此近所の事かも知れぬ。今でもサバニと称する小さな刳舟だけは、人が担いで陸の上から往来し、遠く辺土名喜屋武の岬を廻る労を避けて居る。内地の府県で船越と云ふ多くの地名は何れも曾て此方法に由って、小舟を別の海へ運んだ故跡である。島尻郡の方にも玉城村富名腰が有る。又同じ郡の佐敷村、八重山石垣島の伊原間などに、フナクヤと云ふ地名があるのは、皆この船越のことだらうと思ふ。」(14山原船)

大正10年(1921年)に柳田國男は、当時沖縄島の最もくびれたところ(30町=3270m)では刳船をかついで東岸と西岸を往来している事実を報告するとともに、全国の船越という地名の起源がこのような活動の跡であると述べています。
時代を遡れば日本の全国どこでも船越があったことを理解できます。舟をかついで陸を往来することは、移動を効率的で安全に行うために一般的に行われていたと考えます。

沖縄島の地図
グーグルマップによる

つづく

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