地名「船越」に関する鏡味完二の語源説 3
1 「船越」を「舟利用における引っ越し」と考える
鏡味完二の「船越」≠曳舟説という結果を、自分としては受けとることにします。
曳舟があったからそれが語源で「船越」という地名が生まれたと考えることには無理があると思います。
ただし、古語「船越」は風景的に船形地形の峠を意味するという鏡味完二の説に、100%は納得できません。
船形の峠地形を指すことが原義なら、もっと沢山の「船越」名が山間部を含めてあるはずです。多数の峠地形が船形とみなすことが出来ると思いますが「船越」名は稀です。
また、船形地形に由来するならば、「フナコエ」となってよさそうですが、問題の地名はほとんど「フナコシ」で動詞的な印象を受けます。
「船越」は曳舟を直接意味しないが、舟利用と峠との関係の中で生まれた言葉であると考えた方が合理的であるように感じます。
例えば、「船越」を「舟利用における引っ越し」と考えると、海岸や平野部の「船越」名のほとんどについて説明できると思います。
つまり舟を利用しているなかで、乗越えたい障害物(海岸の陸繋、地峡、平野の急流部、川を遮る峠等)のある場所で、一旦舟を降りて荷物と人が陸行し、再び別の舟に乗る行為(舟の引っ越し)を「船越」と考えることもできるのではないかと想像します。
曳舟ではなく、舟から降りて陸行し、再び別の舟に乗ることを「船越」と呼ぶならば、たとえ標高が高い峠をそう呼んでも、不思議ではありません。
また、荷物と人が陸行して別の舟に乗るだけではなく、乗ってきた舟も曳舟で陸行させる場所も多々あったと思います。
2 横須賀の船越の例
鏡味完二は横須賀市の「船越」地名について、「曳舟など全然考えられない地形であり、これも恐らくその背後の峠のスカイラインの形態からくる船越地名であろう。」としています。
私は、この「船越」が東京湾と相模湾を隔てる狭い地峡部(三浦半島)に位置していて、古代の舟運ルートと関係してつけられた地名であると想像しています。
縄文海進時代には地峡部の幅は現在よりもはるかに狭く(特に逗子市側の田越川[※]の谷底平野のほとんどは海面であったと思われます)、古代にあっては舟を利用できない陸地部は大変狭かったと考えます。
※甚だしい空想ですが、田越川(タゴエカワ)のタゴエはタオ(=峠)コエ(越)ではないかと疑っています。
この「船越」の場所で一旦舟を降りて陸行し、タオ(=峠)を越えて逗子市側の水面で別の舟に乗り換えたと想像します。
曳舟という人文現象が全くなかったと断定することもできないと思います。担げる小さな舟なら運べると思います。
横須賀市船越の位置
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