地名「船越」に関する鏡味完二の語源説 2
鏡味完二の「船越」≠曳舟説を紹介します。この論に対する感想・考察は追って別記事とします。
1 志摩半島の船越
参考 三重県志摩市大王町船越
1-1 曳舟の実体があった
鏡味完二は志摩半島の船越(地元発音 フネコシ)における曳舟について次のように記述しています。
「平素は漁業用の船が表海に、農業用の小船が裏海にのみあった。ところが真珠の仕事が忙しくなると、表海の大きい船を裏海(英虞湾)へ移し入れる必要が生じてくる。それには現在の船越の町を横切る2筋の道路の何れかを通って船を曳いた。手漕ぎの1ton.程の船であれば、5~6人で吊って歩いた。それより大きい船になるとコロに用いる横木(この地方ではスベリという)を船の下側に差入れ乍ら動かした。」昔はこの地峡はもっと狭かったこと、昭和6~7年に深谷水道という運河が設けられてから曳舟はなくなったことも記述しています。
これだけの明らかな歴史とその位置から船越の地名が曳舟という社会慣行に由来していることは当然のように見えるが、次の証拠から、船越の地名由来は曳舟ではないと鏡味完二は論を進めます。
1-2 地名「船越」が曳舟に由来しない理由
ア 船越村役場所蔵「志摩国英虞郡船越村地誌」(著者及作年不明)を繙くと、「海岸ハ岬湾出入シ渡船海路ノ要津ナルヲ以テ船越ト名ク可シ」とあって曳舟由来を説いていない。
イ 以前この集落は「大津波(オオツバ)」といったが、忌字をさけて「船越」と改めた(年代不詳)。(同村助役談)
ウ 近くに、尾根に舟形の窪みのある峠道の通ずる場所の小字名に「船越」がある。
以上の情報から、鏡味完二は曳舟の社会慣行のあるこの場所にもともと船越地名はなかったことを明らかにしました。
そして、「大津波」を改めた際に、(曳舟とは関係のない、近くの)古い峠地名(字名)の「船越」を用いた(所謂「地名の拡充」)のか、あるいは、村民が社会慣行に従って新たに「船越」を構成したかは不明としています。
何れにしても、曳舟の行われる所に船越の地名が元はなく、返って丘の上の峠地形のことばとして存在していたことから、「船越」という古語は曳舟の意味ではなかったと推論しています。
峠地形の語としての存在が古いということと、同一地域社会で同時代に、2つの同音異義の言葉が併用される望みは薄いから、そのように推論できるとしています。
2 船越地名の分布とその語源
船越の分布
船越の分布図をみると、「その位置からいえば海岸にあるものよりは、寧ろ内陸のあるものの方が多数である。更に海岸にあるものも、その半数は地峡部に存在しない。更にもう一歩進んで地峡部に位置するものも、その地峡部が数十mあるいはそれ以上の山岳丘陵になっていて、到底そこを曳舟など不可能なものが多い。」としています。
5例を説明しています。
A 姫路市の西部
「姫路市の西郊で、「船越山」があり、小径がそれを乗越えている。この小丘は横からみると舟形にみえる筈である。」
B石巻市北方
参考 宮城県石巻市小船越
「北上川の分流の追波川の屈曲部で、「小船越」という地名は昔は川舟がそこを通ったかどうかはここに今解らないが、恐らくは船形の狭隘地形と見られる。」
C横須賀市北西方
参考 神奈川県横須賀市
「横須賀湾の北西に隣る長浦湾に臨む「船越」という集落で、曳舟などは全然考えられない地形であり、これも恐らくその背後の峠のスカイラインの形態からくる船越地名であろう。」
D佐世保市西南方
参考 長崎県佐世保市
「佐世保湾の西側の半島の1部分で、その地峡部に近く「船越」の集落名がある。所が地峡部には40mの丘が連なり、現在では村道がここにトンネルをうがって通じている程の、険阻な地形であるから、この部分を船が通れる道理はない。地形図によればこの地峡あたりに、その横からのプロフィルで2~3の船形に窪んだ地峡があり、そこを船でなく、人が越えた意味の「船越」という地名が附けられたものと思われる。」
E波切西方
「志摩半島の「船越」で、最も曳舟に由来する地名らしく思われる例であるが、そのような解釈のできないことは記述の如くである。」
この例示の後、鏡味完二は次のように結論付けています。
「峠の地名で論じたことがあるように、「~越」という峠地名は、~坂や~峠という峠地名よりも古い型のものであるということから、「船越」という地名もまた古代のものといわざるを得ない。地峡部を曳舟する人文現象が一定の個所で、それが地名となる程に頻繁に行われるということは、それは時代の下った頃とみるべきで、そしてその頃にはもう曳舟の意味の「船越」が地名となる余地の少ないほど、別の地名が早くから与えられ、稀にそういう機会があったり、志摩の船越町のような場合が少々あったりする程度で、大多数の船越地名は「人が船形の峠を越える」意味に由来する結果地名となったものと解される。」
本稿は現代地図を除き、「鏡味完二、日本地名学 科学編、昭和32年、日本地名学研究所」による。
つづく
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